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一神教が問題か?

1.問い

イスラム教原理主義にもとづくとされるいわゆる「テロ」と、ブッシュ・アメリカの対イラク報復戦争などにより、「一神教」に対する批判が一部で議論されている。一神教は自己絶対主義で他と争うが、仏教や多神教は平和的である、というのである。つまりユダヤ教もイスラム教もキリスト教も一神教として批判の対象になっている。これは大きな課題であり、丁寧に検討する必要があるが、今は若干のメモのみを記す。

2.一神教の危険
たしかに一神教は唯一の神を信じ、その神への忠実を誓うところから、ややもすれば他宗教、他の立場して否定的になる傾向を持ちやすい。イスラエルの歴史にも、キリスト教の歴史にもそのような具体例はたくさんある。「聖戦」と称し、「神の正義」を盾にとって相手を滅ぼす行為をしてきた事実に対し、聖書の信仰に立つ者としてしっかりした反省をし、そのようなあり方を克服する必要がある。
しかし「一神教は戦争、多神教は平和」というような議論の仕方はあまりに短絡的であり、別の事実があった(たとえば浄土真宗と一向一揆)ことを見失わせる。またこのような結論だけが先行したのでは、宗教の内容を丁寧に掘り下げていく意味を初めから否定してしまうことになりかねない。
旧新約聖書は膨大なものであり、あらかじめ結論を決めてそれに合致するものを集めようとすればいくらでも見つかるであろう。「聖書は敵を滅ぼせと言っている」いう結論を取り出すことも、反対に「敵を愛せよと説いている」という結論を取り出すこともできる。キリスト教は戦争の宗教であるとも言え、反対にキリスト教は平和の宗教である、と主張することもできる。

3.キリスト教の原点――イエス・キリスト
イエス・キリストは神と人間の間の壁を打ち破り、神と人との間に平和をもたらした/もたらす存在である。神の子イエスが人の子としてこの地上に生まれ、生き、死に、そして復活したのは、目的がある。それは、神と人との間に和解をもたらすことであり、また人と人の間に平和を実現することである。これがキリスト教の原点であり、新約聖書の中心的メッセージである。ブッシュのアメリカが「神の正義」を掲げて対イラク戦争を行うのは、私見によれば反キリスト教的行為であり、神の名によってイエスを死に至らせた当時の大祭司、ファリサイ派、律法学者と同じ誤りを犯している。
イエスは悪との対決を辞さなかったが、暴力によって解決を図るのではなく、自分の心と体をささげて相手を愛し尽くす、という仕方で悪を克服しようとされたのである。

4.キリスト教の今日的使命
キリスト教の名前がつけば何でも良く、反対にキリスト教でなければすべて間違っている、というのは偏狭な態度であり、私はそのような立場を取らない。かえってキリスト教の中に多くのイエス・キリストに対する背反があり、キリスト教以外にイエス・キリストの精神と共通するものがある。大切なことは、今日、キリスト教がどのような人間と社会を形成しようとするか、という点にある。
端的に言えば、キリスト教の使命は「責任的主体性を持った人間の形成」であり、「地上における平和の実現」であり、「天国と地上の橋渡し」である。
第一の点についてのみ簡潔に述べる。
神(あるいはイエス・キリスト、聖霊)は、群衆の中から一人の人間を呼び出す。呼び出された人間は、自分が神に愛されている存在であり、人生は生きるに値することを知らされる。そして自分にも固有の賜物と使命が与えられていることを知らされる。人が、世間がこうだからそうする、というのではなく、自分の心と頭と体で何が正しいことなのか、何が人を生かし自分も生かされることなのかを責任的に判断し、行動するように成長させられる。神と共に生きる「自立」がキリスト教の根幹である。しかしその自立は、人の間で、社会の中で「愛と正義と平和」を実現していくの器とされることである。群衆の中から一個の人間として神によって呼び出された者は、神によって励まされて再び群衆の中へと送り返される。
イエスは「平和を実現する人は幸いである」と言われた。ここに福音の中核がある。その平和の実現のために、人が責任的主体として形成されること――これがキリスト教が自覚的に引き受けるべき使命である。
キリスト教は教会の自己保存のために存在するのではない。イエスがそのために生き、そのために死に、そのために復活された「神の国」の実現のために、換言すれば「愛と正義と平和」の実現のために存在する。そのためには自分を批判的に見つめ、自分に託された使命を自覚し、キリスト教以外のさまざまな人々と共に手を携えることが大切である。

以上のようなことが今日のキリスト教にとって重要であり、一神教を擁護すること自体にはあまり意味があるとは思われない。しかしキリスト教がイエス・キリストに神を見る以上、キリスト教固有の立場(世間的に言えば「一神教」に分類されるかもしれないが)を明確にすることはどうしても必要である。
仏教や多神教の立場の人たちも、いたずらに自己の立場の擁護をするのではなく、自己の宗教にもあるはずの誤りや危険を率直に見つめ、一神教を含む他の立場の人と共に平和のために手を携えることを考えてくださるように希望する。