- - 【説教】わたしたちのゆえに喜びの歌を歌われる神
- - 【説教】夕べになっても光がある
- - 【聖餐式の言葉 15】天におられるわたしたちの父よ(主の祈り)
- - 【聖餐式の言葉から 14】取って食べなさい
- - 【説教】見よ、その方が来られる
- - 【説教】終わりまであなたの道を
- - 【説教】牧者となられるイエス
- - 【説教】わたしを憐れんでください──バルティマイの叫び
- - 【講話】イエスが祈られた「主の祈り」
- - 【説教】背いた者のために執り成しをしたのは
- - 【説教】御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ
- - 大韓聖公会ソウル教区 金エリヤ主教 就任の辞
- - 【説教】ねたむほどに愛される神
- - 【説教】慰め励ましてくださる神
- - 【一日を終える祈り】
- - 【説教】悪魔の策略に対抗して
- - 【国境を越えて老司祭と分かち合った尹東柱の物語】
- - 【礼拝のための祈り】
- - 【説教】あなたこそ神の聖者
- - 【説教】命を得るために
キリストと共に生きるようになる
テモテ二 2:8-15
2019年10月13日・聖霊降臨後第18主日
奈良基督教会での説教
今日の使徒書は、パウロがテモテに宛てて書き送った第2の手紙の一節です。昨夜になって気づいたのですが、週報に記した説教の題は不十分だったと思います。予告段階から「キリストと共に生きるように」と、題を決めていました。これはこれで意味があります。
「キリストと共に生きるように」とわたしたちを勧め、励ます言葉が響いている。わたしたちに必要な、また力になる呼びかけです。
けれども今日の手紙の本文は、2章11節ですが、「キリストと共に生きるようになる」です。あなたがたはキリストと共に生きるようになるだろう。必ずあなたがたはそうなる。キリストと共に生きることがあなたがたの定められた未来、言わば宿命だ──これが本来の意味です。
ここでパウロは、当時の教会で歌われていた聖歌、祈りの歌を引用しているようで、それで聖書本文のこの箇所は何度も改行がなされています。
当時の教会の礼拝の中でこのように一緒に歌われていた。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」2:11
一緒に歌うことによって、聖書の福音は、イエス・キリストの愛は、わたしたちの中に浸透します。その言葉の意味とイメージを感じ、また心を込めるなら、そうなります。
今、聖歌541を歌いました。
♪空の鳥よ、野の花よ あなたたちは美しい
♪悩まず 感謝しよう 日々ある主の恵みを
わたしたちは悩みます。ひどいときは自分と世界のすべてが悩みになる。けれどもこの歌によってわたしたちは方向転換させられます。
♪悩まず 感謝しよう 日々ある主の恵みを
悩みはある。しかし感謝すべきことを数える。日ごとに与えられているよきこと、主の恵みを心に留める。前に向かって歩むことができるのです。どうかわたしたちにとっての聖歌が、さらにそのように働いてくれますように。
ところでパウロは今、獄に捕らわれています。鎖につながれています。その中から、宛先のテモテに向けてこの歌を書き送ります。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」
テモテは教会の指導者としてあまりに重い責任を与えられていて、つぶれてしまいそうな心配がある。それでパウロはテモテと共にこの祈りの歌を歌おうとするのです。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」
ここから復活の力が湧き出ます。
このようにテモテを励まそうとしているパウロですが、一方で彼はこの手紙の中で自分の経験してきた苦労をところどころで吐露しています。たとえば2章の終わりです。
「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。」2:24-25
これを単なる教訓として読んだら面白くありません。
「主の僕たる者は争わず」。ああ、自分は争ってきた。「すべての人に柔和に接し」。不愉快な相手にそんなことはできなかった。「教えることができ」。十分にていねいに教えることができなかった。「よく忍び」。しょっちゅう忍耐は切れてきた。「反抗する者を優しく教え導かねばなりません。」さんざんな反抗に遭ってきて、優しくなどできなかった。
けれども長い伝道生活を振り返ってみたとき、パウロは深い反省や苦(にが)い失敗の中から、やはりこういうことが大事だと悟り、後輩のテモテに勧めているのでしょう。
次の言葉も興味深い。25節の後半です。
「神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」
あの腹立たしい人たちの顔が思い浮かぶ。彼らは悔い改めなければ滅びだ、と言ってやりたい。けれども「神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」
「かもしれない」と言っています。悪いことをしてもまったく反省もせず、真理を認識しようとしない頑な彼ら。もうどうしようもない。けれども神は、それでも彼らを変えてくださるかもしれない。希望は捨てないのです。あとは神さまにゆだねます。
さらにこんなふうに言っています。
「こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」2:26
彼らは悪魔に生け捕りにされて悪魔の意のままに振り回されている、というのです。けれども「いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」
こんなに痛烈な言葉があるでしょうか。聖書はもっと穏やかな、立派なことが書いてあると思っている人にとっては、驚くような言葉の連続です。けれどもおそらくもう年老いたパウロは、この人と世界の現実、自分が戦い苦しんできた悪魔的な力について、率直に物を言わずにはおれなかった。またテモテを励ますためには、それが必要だったのではないでしょうか。
「いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」
パウロは希望を捨てずに祈っています。
わたしはある時期、このテモテへの第2の手紙がとても好きでした。今もです。表現はひどいかもしれないけれども、これが福音のために、キリストのために苦闘する生(なま)の人間の真実の声です。最後は神さまにまかせて、人を見限りはしないのです。
この手紙の終わりのほうでパウロはテモテに頼んでいます。
「ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。」4:9
「あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。」4:13
秋が深まりつつあるのではないでしょうか。やがて冬が来る。トロアスのカルポのところに置いてきてしまった外套がほしい。寒く冷たい冬の獄中生活を耐えなければならないのですから。
「また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。」
何の書物でしょうか。聖書に違いありません。獄中ですから、手元に聖書があったとしても、それはごく一部でしかなかったのではないでしょうか。聖書がほしい。聖書が読みたいのです。聖書から神さまの声を聞かなければ生きていけないのです。特に羊皮紙のもの。きっとパウロの弱った目にも読みやすい、手触りのよいものをそばに持ちたい。それで抱いて寝たいくらいなのです。
こうしてパウロは自分の苦労や憤りも含めて率直に語りつつ、テモテを励まそうとしました。同時にテモテとの信仰の交わり、キリストにあるつながりをとおして、自分も励ましを受けていたに違いありません。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」
わたしたちは洗礼においてキリストと共に死んだ。それなら、キリストと共に生きるようになる。キリストが生きておられるからわたしたちも生きる。それ以外はない。
「キリストと共に生きるようになる。」
必ずキリストと共に生きる。キリストが共に生きてくださる人生──それが、わたしたちに与えられた祝福であり、唯一の道であり、希望であり、また現実です。
祈ります。
神さま、「キリストと共に生きるようになる」という言葉を今日聞きました。この言葉をわたしたちの内に宿らせ、わたしたちの命また力としてください。キリストと共に生きるように定められたわたしたちを、その命の道に戻らせ、新しく確固として歩ませてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン