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わたしを思い出してください

ルカ23:35-43
2019年11月24日・降臨節前主日
奈良基督教会での説教

「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」ルカ23:42
 十字架につけられた犯罪人の一人が、傍らのイエスに呼びかけました。今、イエスは、十字架にかけられて血を流し、死のうとされています。
 それにしてもなぜ、今日の福音書が十字架の箇所なのでしょうか?
 今日は降臨節前主日、教会の暦の最後の主日です。そして来週は降臨節第1主日、クリスマスに向けて準備する時の始まりです。そのような時期に、なぜ主イエスの十字架の場面が選ばれているのでしょうか。わたしはこう思います。
 この教会の暦の最後、そして新しい1年の始まりを控えたこの日、クリスマスの祝福に向けて踏み出そうとする今こそ、わたしたちの救い主がどういう方であるかを心に刻まなければならない、と。
 主イエスの十字架がはっきりしなければわたしたちの救いの根拠ははっきりしません。反対に、十字架から来る恵みの光に照らされるとき、わたしたちは闇から解放されるのです。

 そこで今日の福音書の箇所を読みましょう。登場人物を順にたどっていくことにします。
 「民衆は立って見つめていた。」23:35
 第1は民衆です。その後に「議員たちも、あざ笑って言った」とありますから、この民衆もイエスを冷ややかな目で見つめてあざ笑っていたように見えるかもしれません。しかしわたしにはそうは思えないのです。ルカ福音書の「民衆」(オクロス)という言葉をたどってみると、全然違う民衆の姿が浮かび上がってきます。主の受難が近づく時期の民衆の姿を、いくつか見てみます。

 「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、
民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」19:47-48
 民衆は皆、夢中になってイエスの話に聞き入っています。
 「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」20:19
 民衆は無言のうちにイエスを守っているのです。

 そしてイエスが裁判の場から死刑場まで連れて行かれる場面です。
「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」23:27
 民衆は女の人たちとともに嘆きながらイエスに従っていきます。
 この民衆が、イエスの話に聞き入り、イエスを守ろうとし、そして嘆きつつイエスに従ってきた民衆が、今、十字架にかけられたイエスを見つめています。この民衆は無力です。イエスを助ける力はありません。しかし嘆きつつ、この人たちは知っているのです。正しいのは、イエスを十字架につけた権威ある人たちではなく、正しいのは十字架につけられたイエスであると。
 わたしたちも、この民衆の一人でありたいと願います。

 第2の登場人物は議員たちです。ユダヤ人の指導者たち、イエスを死刑に定めた人たちです。
 「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」23:35
 第3は兵士たちです。ローマ帝国の兵士たち。
 「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」23:36
 第4はイエスとともに十字架につけられた犯罪人の一人です。
 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」23:39

 そして最後、第5の人物は、十字架につけられたもう一人の犯罪人です。
 「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」23:40-41
 そしてこの人はイエスにこう呼びかけます。
 「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」23:42
 彼は、死のうとしつつ、苦しい息の中から呼びかけます。
 「イエスよ」 Ἰησοῦ(イエスー)
 苦しみの中からイエスを呼ぶのです。心と体は破れて、切にイエスを呼ぶのです。
 「イエスよ」
 この人の一言が、イエスの名を呼ぶとはどういうことかを教えてくれます。人を気にしたり、他のことを考えたりしながらではなく、虚飾も誇りも自我も消えて、ただ心からイエスを呼ぶ。これが祈りです。
 クリスチャンとは何か。イエスの名を呼ぶ人のことです。

 「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」
 イエスよ、あなたが天のみ国においでになるときには、わたしを思い出してください。
 イエスよ、あなたが地上のみ国においでになるときには、わたしを思い出してください。
 わたしを思い出していただくだけでいいのです。わたしのことを忘れずにいてくださるだけでいいのです。イエスがおぼえていてくださるなら、イエスがわたしのことを思い出してくださるなら、孤独の奈落の淵に落ちることはない。これだけが、人生の最後の願いです。

 それに対してイエスは答えて言われます。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」23:43
 イエスは、心からその名を呼ぶ者を放置されません。求める以上のことをしてくださいます。ただイエスを呼んで終わったのではなく、イエスがこの人の将来を、救いを、祝福を約束してくださったのです。「思い出す」ばかりではない。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、わたしはあなたを楽園に迎える、と。

 3時間後、イエスは大声で叫んで息を引き取られました。イエスは死なれました。しかしその死の中に、イエスとともに死んだ犯罪人の死は引き受けられています。イエスとともに死ぬ者は、イエスとともに永遠の命を受けます。
 わたしたちは洗礼においてイエスとともに死にます。わたしたちの死と滅びはイエスが引き受けてくださり、イエスの復活の命、永遠の命が、わたしたちに与えられる。これが十字架の意味です。

 あの民衆の嘆きがわたしたちの嘆きとなり、イエスとともに死んだ犯罪人の祈りがわたしたちの祈りとなりますように。そのようにしてわたしたちもイエスの御国(みくに)の約束を聞くことができますように。アーメン