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尹東柱の詩
1「天を仰ぎ」
2「悲しむ者はさいわい」
3「十字架がゆるされるなら」
これは日本聖公会京都教区の「つのぶえ」という月刊紙の「イエスのまなざし」シリーズに「韓国・朝鮮と日本」について3回の執筆を求められたのに応じたものです。できればこのホームページで継続したいと思っています。なお訳は伊吹郷氏のものを元に自分でかなり手を加えています。
1「天を仰ぎ」
韓国・朝鮮でとても愛されているキリスト教詩人に尹東柱(ユン・ドンジュ)という人がいます。彼は1945年2月、福岡刑務所で獄死しました。満27歳。治安維持法違反(反日独立思想を鼓吹した)がその罪状でした。具体的には、ハングルで詩を書いたのが罪とされたのです。
彼は1917年、中国東北部の間島で生まれ、まもなく幼児洗礼を受けました。平壌(ピョンヤン)の崇実(スンシル)中学に学びましたが、同校が日本による神社参拝強制に抵抗したため廃校の危機に陥りました。そこで彼はソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校に移りました。その時代に彼は「序詩」と呼ばれる詩を作りました。
死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを
葉あいにそよぐ風にも
わたしは苦しんだ。
星をうたう心で
すべての死んでいくものを愛さなければ
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒される。
23歳の彼は、天を仰いで祈りました。
「死ぬ日まで天を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを」
死ぬ日まで良心に恥じることのない歩みをしたい、と。
彼が仰ぎ見つめた天。それは目に見える青い空、雲、またきらめく星であったでしょう。しかしそれは同時に、イエスが「天の父」と言われた天、「天の国は近づいた」といわれたあの天、クリスマスに羊飼いたちが天使の歌を聞いたあの天でもあったと思うのです。
ところでイエスご自身が、天を仰がれた記事があります。
人々が耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願いました。イエスはこの人を群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」(開け)と言われました。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった、という物語です。(マルコ7:32-35)
「天を仰いで深く息をつき」。
ここにはイエスの深いため息があります。人の、うめきに触れて、イエス自身がうめかれた。天を仰いでため息をつきながら神に訴えられたのです。
ところで、あの「序詩」の「天を仰ぎ」と訳した所は朝鮮語で「ハヌルル ウロロ」という言葉です。そして今のマルコ福音書「(イエスは)天を仰いで」と訳された箇所、当時の韓国語の聖書の言葉も「ハヌルル ウロロ」で、まったく同じです。
イエスが困難を抱えた人々の中にあって天を仰がれたあの「ハヌルル ウロロ」と尹東柱の「ハヌルル ウロロ」は、たがいに響き合っていたに違いありません。
天を仰いで祈り、天を仰いで自分の思いを神の前に差し出し、また天を仰いで隣人の痛みに共鳴する者となりたいと願います。
2「悲しむ者はさいわい」
尹東柱に「八福」という詩があります。八つの幸福。マタイ福音書第5章3節以下に基づく詩です。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は……義に飢え渇く人々は……」。
ところが尹東柱はこれをすべて二つ目の幸い、「悲しむ人々は、幸いである」にしてしまいます。八つはすべて「悲しむ者」に置き換えられるのです。
悲しむ者は、幸いである
悲しむ者は、幸いである
悲しむ者は、幸いである
悲しむ者は、幸いである
悲しむ者は、幸いである
悲しむ者は、幸いである
悲しむ者は、幸いである
悲しむ者は、幸いである
スルポハヌンジャヌン ポギ インナニ
スルポハヌンジャヌン ポギ インナニ……
「心の貧しい者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「憐れみ深い者」「心の清い者」「平和を実現する者」「義のために迫害される者」――これらイエスに幸いを呼びかけられた人々は皆、「悲しむ者」に代表されるのです。言い換えると、「心の貧しい者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「憐れみ深い者」「心の清い者」「平和を実現する者」「義のために迫害される者」――これらの人々は皆、悲しまざるを得ない。尹東柱はその悲しみを知っていました。
そして「八福」の最後は
私たちは(彼らは)永遠に悲しむであろう。
何ということでしょう。私たちは(彼らは)永遠に悲しむ。
彼は客観的なところに身を置いてこれを言っているのではありません。もしこの世界に悲しむ人が1人でもいるなら、その一人のために自分も悲しむ。この世界に悲しみが終わらない限りは、自分の悲しみも終わらない。
ここにはイエスの悲しみが溢れています。
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
自ら悲しまない人が言うのであればこれほど無責任な言葉はありません。しかし自分が傷つき、深く病むほどに悲しみを知っている人が言うのであれば、事情は違ってきます。
「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」マタイ11:16、17
人が苦しめられ、命を失っても、悲しみを感じない。そのような時代の現実を、イエスは深く嘆き悲しまれました。
尹東柱がこの詩を書いたのは1940年、満23歳になろうとする頃でした。彼はソウルのメソジスト教会に通い、英語聖書研究会に出席していました。
この年、朝鮮人に日本式の姓を強制する「創氏改名」が実施され、「東亜日報」「朝鮮日報」は強制廃刊。やがて日本聖公会を解体させることになる「宗教団体法」が施行されました。
3「十字架がゆるされるなら」
追いかけてきていた日の光が
いま教会堂の尖端
十字架にかかりました。
尖塔があれほど高いのに
どうして登ってゆけるでしょうか(「十字架」)
23歳の尹東柱は、夕日を受けて輝く礼拝堂尖端の十字架を見つめていました。自分はあのような高みには登って行けない。イエスに従って苦しみを引き受けることはできない。
鐘の音も聞こえてこず
口笛でも吹きながらさまよい歩いて……
教会の鐘の聞こえないところまで行って、口笛でも吹きながら気楽な生き方をしようか。しかし遠ざかれば遠ざかるほど、いよいよイエスの思いが、またイエスへの思いが迫ってくるのです。
苦しんだ男
幸福なイエス・キリストにとってそうだったように
十字架が許されるのなら
イエスにとって苦しみは、実はほんとうの幸福であった。名声と財産と地位を得、身の安全を確保したとしても、良心の平安は決して与えられないであろう。十字架は、自分で決意して獲得するものではなく、神から恵みとして与えられ、許されるものである──そう知ったとき、苦難を負ったイエスの生涯は幸福な生涯であったと感じられました。
首を垂れ
花のように咲き出す血を
暗くなっていく空の下に
静かに流しましょう。
この詩を書いた翌年1942年春、尹東柱は日本に渡り、立教大学英文科に入学しました。しかし思うところがあり、10月に京都の同志社大学英文学科に転入しました。彼は朝鮮の歴史、文化、そしてより具体的に自分たちの言葉が、日本の力によって滅ぼされていく危機を感じ、自分の思いを大切に暖め、朝鮮(韓国)語で詩を書きました。
翌1943年7月10日、彼は左京区の下宿にいるところを逮捕され、下鴨警察署に拘留されました。間島に帰省するため、故郷に荷物を送ったばかりでした。治安維持法違反、独立思想を鼓吹したとの理由で懲役2年の判決を受けました。自分の言葉で詩を作ることが日本の国体に反する犯罪とされたのです。刑期は1945年11月30日までとされました。
1945年2月16日未明、尹東柱は福岡刑務所で息を引き取りました。「意味は分からないが大声で叫んで絶命した」と看守は証言しているそうです。満27歳でした。
……
しかし冬が過ぎ、わたしの星にも春が来れば
墓の上に青い芝草が萌え出るように
わたしの名が埋められた丘の上にも
誇らしく草が生い茂るでしょう。(「星を数える夜」)
彼は春を待たずに死にました。けれどもこの詩には、すでに復活の光が差しています。彼の生涯とその詩は、人にとって何がもっとも大切なのかを思わせます。