• 個人誌 Ariel
  • 井田泉ブログへ
  • Facebookへ

新着情報

アーカイブ

【説教】見よ、世の罪を取り除く神の小羊 2020/01/19

ヨハネ1:29-41
2020年1月19日・顕現後第2主日
奈良基督教会での説教

 イエスさまに洗礼を授けたあのヨハネ、洗礼者ヨハネが声を上げて言いました。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネ1:29

 イエスが自分のほうに来られるのを見て、思わずそう言ったのです。

 すでに洗礼者ヨハネは、イエスが「やがて来られる方」「来るべき方」であると思っていました。「やがて来られる方」とは、聖書に預言されて、長い間人々が待望していた方です。その方は、世の悪を明るみにし、人々を裁き清めることをとおして救う方であると、ヨハネは信じていました。そしてヨハネは、人々にイエスを指し示しはじめていたのです。しかしそれでもヨハネは、まだイエスのことを十分には理解していませんでした。

 この日、ヨハネはイエスが自分に向かってこられるのを見て

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

と言いました。

 これはヨハネの驚きの声です。決定的にイエスを知った叫びです。よく考え、観察した後にじっくりと答を出した、というのではありません。瞬時に、見て、感じて、わかって、声を上げたのです。

このあとヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった」と、今日の箇所で2度も言っています。

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、……」1:31

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、……」1:33

 今、明確にこの方を知ったからこそ、それ以前は「知らなかった」と、率直に言うのです。しかし今、はっきりと彼の中で腑に落ちました。ヨハネはこう言います。33節の続きです。

 「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が(つまり神さまですね)、『“霊”が降(くだ)って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」ヨハネ1:33-34

 ヨハネは、神さまから聞いていたとおり、イエスに神の霊が降(くだ)ってとどまるのを見ました。イエスは神の霊を受けて、愛と命に満ちておられる。しかし今日、もっと具体的にイエスを見て、はっきりと知り、確信したのです。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 でも正直に言えば、わたしたちにはよくわかりません。

「小羊」とはどういう意味があるのでしょうか。

 遠い昔のことがずっと毎年記憶され、記念されてきたことがあります。それはイスラエルの先祖の出エジプトの出来事です。エジプトを脱出する直前、イスラエルの家では小羊を屠(ほふ)って食べ、その小羊の血を家の入り口の柱と鴨居に塗ったといいます。主の使いがエジプト人を撃つとき、小羊の血が柱と鴨居に塗られた家は手を付けずに通り過ぎた。それを記念するのが過越の祭です。小羊の血によって守られた昔の出来事を記念するのです(出エジプト記12:21-35)。

 ヨハネはイエスのうちに何を見たのか。過越の小羊です。この方が血を流して死んで、わたしたちを守ってくださる。しかもイエスの命と死と流される血は、世の罪を取り除く。

 しかし「小羊」にはもうひとつ別のイメージがあります。

 「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」イザヤ40:11

 神に抱かれ、母とともにある小羊。父であり母である神さまの愛(いと)し子です。その方=イエスが、世の罪を取り除くために苦難を受けて死なれる、とヨハネは見てとったのでした。

 その翌日、ヨハネは再びイエスを見つめて言いました。

「見よ、神の小羊だ。」ヨハネ1:36

それを聞いたヨハネの二人の弟子は、ヨハネから離れてイエスに従いました。わたしたちはどうでしょうか。

 今日わたしたちは、神の小羊と言われるイエスをしっかりと見つめたい。すぐに目をそらすのではなくて、まじまじと見つめるのです。

第1の姿は、平和な小羊イエスです。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」イザヤ40:11

と言われたように、神に愛され抱かれている小羊イエスです。この方を心の目で見つめているうちに、神の愛が、イエスをとおしてわたしたちのうちに注がれ、わたしたちを浸していきます。

 

 第2の姿は、世の罪を除くために苦難を負われる神の小羊イエスです。ヨハネがはっきり見て知ったのは、この神の小羊イエスでした。

 「世の罪を除く神の小羊」

 わたしたちはこの礼拝で、先ほどの「大栄光の歌」でそう歌いました。わたしたちを愛して苦難を負われるイエスを感じて歌ったでしょうか。礼拝の中でこの後もう一度、同じ言葉を歌います。聖餐を受ける直前です。

 「世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください」

 3回も繰り返します。神の子の苦難、神の小羊の流された血がわたしたちを救う。わたしたちを愛しとおされる愛が、聖別されたパンと杯をとおしてわたしたちに与えられ、心と体に浸透する。それを深く味わうために歌います。深い祈りと感謝をもって歌いたいのです。

 そして第3の姿は、牧者となって命の泉へと導いてくださる小羊イエスの姿です。ヨハネの黙示録の中にこう言われています。

「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれる。」7:17

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

 この方がわたしたちに近づいてこられます。この方がわたしたちを愛のまなざしでご覧になります。この方がわたしたちの罪と重荷を引き受けてくださいます。わたしたちはこの方に従い。この方と共に歩みます。

 祈ります。

 神の小羊なる主イエスさま、洗礼者ヨハネがあなたをはっきりと見て知ったように、あなたをはっきりと見て知ることができますように。あなたはこの世界とわたしたちを愛し、苦しみを受けて死に、世とわたしたちの罪を除いてくださいます。世の罪を除く神の小羊であるあなたをはっきりと知って、信じて従うことができるようにしてください。アーメン