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【説教】わたしたちの心は 燃えていたではないか 2016/3/27

ルカ24:13-32
奈良市内キリスト教会合同イースター早天礼拝
2016年3月27日・復活日
奈良福音教会にて

 二人の弟子が遠い山道を下っていきます。日曜日の午後、イエスが十字架にかけられて殺されてから三日目です。二人の弟子たちは、危険なエルサレムを脱出しました。エルサレムから西へ60スタディオン、11㎞くらい離れたエマオにある家にひとまず身を置こうと考えたのです。

 二人は、二日前の金曜日にイエスが十字架の上で処刑されて無残な最期を遂げたことが頭から離れません。あのとき、昼間にもかかわらず全地は暗くなって午後3時に至り、イエスは大声で叫んで息絶えられたのでした。

 もう一つ、今朝から胸にかかっていることがあります。今朝早くにイエスの墓に行った仲間の女の人たちが戻ってきて言うには、「イエスさまのご遺体がなかった。天使が現れて『イエスは生きておられる』と告げた」と言うのです。そんなことがあるでしょうか。
 立ち直れない打撃を受けたうえに、理解できないことを聞かされて、二人は悲しみと絶望と混乱のうちにありました。

 後ろから誰かが追ってきます。こわいと感じましたが、追いついてきて道連れになったその人は、おだやかな優しい顔をしていました。

 その人はこの数日に起こったことを何も知らないようだったので、二人はいろいろ話しました。木曜日の最後の食事のこと。深夜のゲッセマネでの逮捕。金曜日の十字架の死。そして今朝、女の人たちがイエスの墓に行ってみると遺体がなくなっていたという話……。
 その人はずっと聞いてくれました。二人の悲しみ、絶望、恐怖、迷いや疑い……それらすべてをよく聞いて受けとめてくれたのです。

 聞き終えたその人は、やがて今度は自分のほうから話し始めました。
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」ルカ24:25-27

 じっと二人に耳を傾けていたその人が、聖書の話をしてくれます。今度は二人が耳を傾けます。その人は聖書全体にわたって、救い主の受ける苦難と、苦難をとおして入る栄光について話してくれました。それを聞きながら、二人は不思議に自分たちの心が熱くなるのを感じていました。

 日が暮れるころ、三人は目的地エマオに到着しました。その人はなお先に進んでいく様子だったので、二人はその人を無理に引き留めて、「今夜はどうかわたしたちと一緒にお泊まりください」と行って、家に迎えました。夕食の席に着いたとき、その人がパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて皆に配ってくださった。そのとき、二人の目が開かれて、それがイエスであることがわかった、というのです。

「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」24:32

 このエマオの物語は、わたし個人にとって大切な物語です。今から44年前、大学卒業の近づいたころのことです。わたしは学生時代の後半、ずっと「復活」がわからなくて悩んでいました。ある日、大津から大阪への通学の途中、京阪電車の特急に乗っていて、ある本を読んでいて、その関連でルカによる福音書を開きました。この箇所です。日本聖書協会口語訳で引用します。

「彼らは互いに言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。』」24:32

 そこを読んだとき、私の心も熱くなりました。何かが自分の中で燃えるような気がしました。その熱いもの、温かいものが、1日たっても2日たっても、1週間、ひと月たっても消えないで、静かに燃えていました。うれしかった。これが復活ということか。理論的に説明がついて納得したわけではありません。しかし、復活したイエスが生きておられる、ということが事実として力をもってきて、私の中で燃えていました。

 失望落胆してエルサレムを逃れた弟子たち。女の人たちが伝えてきたことを信じることができず、話し合い論じ合っていた弟子たち。その弟子たちを追ってイエスが、イエスご自身が近づいて来られました。イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩き始められました。
 復活がわからないといって悩んでいるわたしに、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩んでいてくださいました。

 わたしたちが苦しいとき、打撃を受けたとき、疑い迷うとき、イエスの心がわたしたちのために燃えています。

 エマオへの道をともに歩んでくださった復活イエスが、わたしたちのところにも来てほしい。あの弟子たちのように、わたしたちの中に無理にでもイエスさまを迎え入れたい。
イエスがわたしたちの中に来られるとき、イエスご自身がわたしたちの真ん中に立たれます。

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛 美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」24:30

イエスはわたしたちのためにもそうしてくださいます。

 そのとき、弟子たちの目が開かれて、それがイエスであると知ったように、イエスがここにおられると知ったように、わたしたちも信仰の目が開かれて、復活の主を見出すことができますように。