- - 【説教】わたしたちのゆえに喜びの歌を歌われる神
- - 【説教】夕べになっても光がある
- - 【聖餐式の言葉 15】天におられるわたしたちの父よ(主の祈り)
- - 【聖餐式の言葉から 14】取って食べなさい
- - 【説教】見よ、その方が来られる
- - 【説教】終わりまであなたの道を
- - 【説教】牧者となられるイエス
- - 【説教】わたしを憐れんでください──バルティマイの叫び
- - 【講話】イエスが祈られた「主の祈り」
- - 【説教】背いた者のために執り成しをしたのは
- - 【説教】御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ
- - 大韓聖公会ソウル教区 金エリヤ主教 就任の辞
- - 【説教】ねたむほどに愛される神
- - 【説教】慰め励ましてくださる神
- - 【一日を終える祈り】
- - 【説教】悪魔の策略に対抗して
- - 【国境を越えて老司祭と分かち合った尹東柱の物語】
- - 【礼拝のための祈り】
- - 【説教】あなたこそ神の聖者
- - 【説教】命を得るために
【説教】人の子が神の右に 立っておられるのが見える 2014/5/11
(2020/05/01 改訂)
今日、使徒書として朗読された使徒言行録第6章、7章は、ステファノ(ステパノ)の殉教を伝えていました。最初の殉教者ステパノの記念する日は12月26日です。それなのになぜ、主イエスの復活を記念する復活節に彼の殉教の記事が朗読されるのでしょうか。
それは彼ステパノが、主イエスの復活の証人であった。言い換えるとこのステパノの中に、復活の主が生きておられたことを、わたしたちが知るためではないでしょうか。
彼が、主イエスの直弟子であったかどうかはわかりません。イエスさまご自身も、また多くの主な弟子たちも、ヘブライ語(厳密に言うとアラム語)を話していました。ところがステパノはギリシア語を話すユダヤ人だったようです。
最初の教会がエルサレムに始まり、次第に人数が増えて行ったとき、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人が、教会には混じり合っていました。両者の間に深刻な葛藤が生じました。少数派であるけれども次第に増えつつあるギリシア語会衆が、差別扱いをされているというのです。特に、最初の教会は貧しいやもめの生活を支えることを大切にしていたのですが、ギリシア語会衆のやもめが軽んじられて、分配が公平でないという声が上がっていました。
貧しい人々を支援するという教会の大切な働きをしっかりと行うために、指導者である12人以外に7人の指導者が新しく任命されました。この7名のひとりがステパノでした。
しかしステパノは教会の奉仕的な働きのみを担ったのではありません。彼は“霊”と知恵に満ちて(使徒言行録6:3)、主イエスによる救いを非常に力強く語りました。彼の言葉と行動を通して、多くの人々が主イエスご自身に出会う経験をしました。次第に信徒は増えて行きました。
ところがそれによってステパノは、力を持った人々の憎しみを買うことになったのです。
主イエスが多くの人々にいのちを与えたように、ステパノは多くの人々に主イエスのいのちを伝えました。主イエスが権力を持った人々によって秩序破壊者として迫害され、捕らえられたように、ステパノも迫害され、捕らえられました。
捕らえられたステパノはユダヤ人の議会、最高法院に引いて行かれ、大祭司から尋問を受けることになりました。主イエスと同じです。
ところが尋問が、かえってステパノにとっては福音を語る機会になったのです。被告であるステパノ、裁きを受けているステパノが堂々とイスラエルの救いの歴史を語り、最後には裁きを行っている人々の罪を明確に指摘するに至ったのです。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」使徒言行録7:51-53
ステパノは、無実の神の子、救い主イエスを処刑した罪を指摘したのです。これを聞いた人々は心を突き刺されました。ある場合には、これによって回心が起こりました。心を突き刺されて、自分たちの良心が疼(うず)き、救いを求める悔い改めが起こりました。それが聖霊降臨日の出来事です(使徒言行録2:37)。
しかしこのときはそうはなりませんでした。ステパノの言葉によって心を突き刺された人々は激高しました。
「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」7:54
怒りと憎しみが燃え上がり、ステパノに対する殺意が人々を突き動かします。自分が殺されることを感じたステパノは、天を仰いで祈るしかありません。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」7:55-56
ここで「ステパノの前に天が開いた」と言われているのですが、天が開くというようなことが聖書のどこかにあったでしょうか。イエスの洗礼のときです。ヨルダン川で洗礼を受けたイエスが水から上がって祈っておられると、天が開けました(ルカ3:21)。
天が開けると、神の現実がありありと見えてくるのです。神の栄光の輝きが見える。その中にイエスが、神の右に立っておられるイエスがステパノにははっきりと見えました。
イエスが神の右に立っておられる。
ところで聖書の別の箇所では、天に上られたイエスは「父の右に座しておられる」と言われています(マタイ26:64、ルカ22:69、ロマ8:34)。
わたしたちの礼拝でも、先ほど歌った「大栄光の歌」では「父の右に座しておられる主よ」と言いました。わたしたちの信仰告白、ニケヤ信経でも「天に昇り、父の右に座しておられます」と唱えます。
ところがこのときステパノが見たのは、立っておられるイエスです。イエスが立ち上がられた。非常事態だからです。死のうとするステパノを、殺されようとするステパノを引き受けようとして、抱きとめようとして、イエスは立っておられる。
すでにここでステパノはイエスの愛によって抱かれました。究極の危機にあってステパノは究極の平安で満たされました。
彼は言います。
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」7:56
しかし
「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。」7:57-59
自分のことを引き受けてくださったイエスに、ステパノは自分をゆだねたのです。
「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」7:60
天を仰ぎ天と通じたステパノ、イエスに自分を引き受けていただいたステパノには、もはや恐怖も怒りも憎しみもありませんでした。ただ、憎しみにかられて自分を殺そうとしている人々があまりにあわれで痛ましかった。絶命しようとするとき、ステパノは大声で叫んで、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って、眠りにつきました(7:60)。
主イエスの最期と、何と似ていることでしょうか。
ステパノの中にイエスが生きておられたからです。
思い返しましょう。
ステパノは最初の教会の葛藤の中で立てられた指導者でした。教会の人々の必要と公平と一致のために現実的に尽力しました。しかし彼の働きは教会内にとどまらず、外に向かって強力に福音を伝えるものでもありました。その結果、世の過ちを指摘することになり、怒りと憎しみを買って捕らえられて死ぬことになりました。
彼は危機のなか、天を見つめ、天を仰いで祈りました。そして、神の右に立っておられるイエスを見ました。
わたしたちも危機のときに、主に従おうとして解決不可能な困難に直面し、かえって脅かされるときに、天を仰いで祈りたい。そしてイエスを見たい。
たとえわたしたちはステパノのようにイエスを見ることができなくても、ステパノのために立ち上がられたイエスは、わたしたちの危機のときにわたしたちを引き受けようとして立ち上がってくださる。イエスがわたしたちを抱きとめてくださるのです。
イエスの愛がわたしたちをひたしますように。
最初の教会の人々は、ステパノの死を嘆きつつ、イエスさまの言葉を思い出したかもしれません。
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5:8
祈ります。
神さま、わたしたちにも天を仰がせてください。わたしたちが危険にさらされるとき、わたしたちのために立ち上がられるイエスを見させてください。虐げられて苦しむ人々のたちに立ち上がられるイエスを見させてください。イエスの愛がわたしたちのうちに浸透するようにしてください。アーメン