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【説教】フィリポの聞いたイエスの祈り 2018/3/11
ヨハネ6:4-15
2018年3月11日・大斎節4主日
奈良基督教会にて
「イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
ヨハネ6:10‐11
今日の福音書には祈っておられるイエスの姿がありました。祈られるイエスに近づいてみたい。イエスの祈りの声をここから聞くことができるでしょうか。
ここは山の上です。たくさんの人々がイエスの周りに集まっています。ここで食前のイエスの祈りを聞いたひとりは、12弟子のひとりフィリポです。今日は彼に目を向けてみます。
祈りの前にイエスはフィリポに問われました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」ヨハネ6:5
フィリポはとても困りました。男だけで5000人、ということは女性と子どもを含めて1万人以上。食べ物の供給は不可能です。
ここで心にとめたいのは、イエスが空腹の人たちのことを本気で心配しておられるということです。悩みを抱えてイエスを求めて来た人たち。この人たちを何とかして元気づけたい。
「この人たちがかわいそうだ。このまま空腹で帰らせたら、途中で疲れ切ってしまうだろう」とイエスは思われたのです。マルコ福音書にはそう書いてあります(マルコ8:2)。
イエスはフィリポに向かって言われました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」
イエスが本気であるのを知り、フィリポはどうしたらよいのかと困惑しました。
弱っている人々。求められる解決。しかし現実の事柄の大きさ、課題の重さに対して自分はあまりに無力です。
こう思うと、フィリポの困惑は他人事ではなくなってきます。現実と課題は迫ってくるのにどうすることもできない。途方に暮れてしまいます。
ある少年が大麦のパン五つと魚二匹を提供してくれました。しかし「このように大勢の人では、何の役にも立たない」と別の弟子は言います。しかしイエスはそれを受け取られました。
イエスは群衆を座らせるように言われました。大勢の人々が草の上に座ります。
「そこには草がたくさん生えていた。」ヨハネ6:10
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて」6:11
今は祈る時です。神に思いを向ける時です。1万人の人たちが静まりかえります。群衆の真ん中でイエスは祈り始められます。人々と共にイエスが祈っておられる。そのイエスの祈りを、自分も祈りつつフィリポは聞きます。
悩みを抱えた人々、飢えた人々の現実を前にして、何とかしたいと思いつつ、イエスはいま差し出されたものを大切に受け取って、感謝の祈りをささげられます。そのイエスの思いを、フィリポは心に深く感じます。
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え」
このときイエスは何を感謝されたのでしょうか。
少年が差し出してくれた五つのパンと二匹の魚──それが感謝です。その少年の優しい心が感謝です。神さまの言葉を求めて、飢えてでもイエスのもとに集まって来ている人々──これが感謝です。この大勢の人々と一緒に神に祈ることができるのが感謝です。不可能にもかかわらず、イエスの問いかけから自分の責任を感じて、困惑しているフィリポの真心が感謝です。
そして目には見えなくても、どんなに困難が大きくても、なお決してわたしたちを見捨てられるはずのない、わたしたちを愛していてくださる神に感謝です。
イエスが祈り、皆が一緒に祈っているうちに、ほんとうに感謝が起こってきました。フィリポの心にも感謝が生じて、溢れてきます。このフィリポの、無力な自分の困惑をも大切なものと受けとめて、祈りのうちに感謝に変えてくださるイエス。このイエスに支えられて共に祈ることができるのは、何というさいわいでしょうか。
奇跡が起こりました。イエスがパンと魚を受け取ってくださったことから、それを神にささげて祈ってくださったことから、イエスと皆が一緒に祈ったことから、不思議なことが起こりました。多くの人たちが共に満たされました。愛と力が溢れだしました。
フィリポが経験したそのような経験をわたしたちもしたい。ただ不足や無力を嘆くのではなく、イエスの思いに触れたい。イエスの祈りの声を聞きたい。わずかなものであってもそれをささげて、イエスと共に祈る者となりたい。
2000年後の群衆であるわたしたち、2000年後のフィリポであるわたしたち。そのわたしたちのためにイエスがおられます。イエスはわたしたちと共に祈ってくださり、わたしたちに必要な命の糧を満たしてくださいます。
祈ります。
主イエスさま、わたしたちが困難を抱えて困惑することがあったとしても、失望にとどまらせないでください。あなたの祈りの声を聞かせてください。わずかなもの、けれども精一杯のものを受け取って祝福を満たしてくださるあなたに信頼します。アーメン
(この日の礼拝では、東日本大震災をおぼえて祈りをささげた。)