- - 【説教】わたしたちのゆえに喜びの歌を歌われる神
- - 【説教】夕べになっても光がある
- - 【聖餐式の言葉 15】天におられるわたしたちの父よ(主の祈り)
- - 【聖餐式の言葉から 14】取って食べなさい
- - 【説教】見よ、その方が来られる
- - 【説教】終わりまであなたの道を
- - 【説教】牧者となられるイエス
- - 【説教】わたしを憐れんでください──バルティマイの叫び
- - 【講話】イエスが祈られた「主の祈り」
- - 【説教】背いた者のために執り成しをしたのは
- - 【説教】御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ
- - 大韓聖公会ソウル教区 金エリヤ主教 就任の辞
- - 【説教】ねたむほどに愛される神
- - 【説教】慰め励ましてくださる神
- - 【一日を終える祈り】
- - 【説教】悪魔の策略に対抗して
- - 【国境を越えて老司祭と分かち合った尹東柱の物語】
- - 【礼拝のための祈り】
- - 【説教】あなたこそ神の聖者
- - 【説教】命を得るために
【説教】わたしにつながっていなさい 2020/5/17
ヨハネ15:1-8
2014年5月25日・復活節第6主日
奈良基督教会での説教を改訂したものです(2020/05/17)。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」
ヨハネ15:1
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」15:5
この言葉は、わたしが小学生の頃から大切にしてきた言葉です。というのは、日曜学校でこの言葉を書いたお皿のような壁掛けをもらって、ずっと机の前にかけてあったからです。
「わたしはまことのぶどうの木」
本当の、ほんもののぶどうの木。それがわたしだと、イエスは言われます。ほんものの、本当のぶどうの木、と言われるのは、世間には偽りのぶどうの木というべきものがあるからに違いありません。
古代イスラエルの人々、聖書の民は、ぶどうの木にどんな思いを寄せてきたのか。その二つを聖書から紹介しましょう。
「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。」ミカ書4:4
脅かされてきた人々の現実がこの背景にあります。
もう一つ。
「その日には、と万軍の主は言われる。
あなたたちは互いに呼びかけて
ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」ゼカリヤ書3:10
今はそうではないけれども「その日には」、ぶどうの木といちじくの木陰に、招き合って一緒に祈り、また楽しむ。お互いの信頼と信仰の交わりが何の心配もなしに実現する、その日が来る。
平和を得てこなかった古代イスラエルの人々が、切に求めてきたのが、平和なぶどうの木陰でした。
二つ目に、ぶどうの木は、そこからぶどうの実を食べ、ぶどう酒を造って飲む。ぶどうは、生活になくてはならないものです。
「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ
パンは人の心を支える。」詩編104:15
苦労の多い人生において、ぶどうのもたらすものが喜びだったことが感じられます。ぶどうの木は、喜ばしく、生きがいのある生活の象徴です。
イエスは「わたしがほんとうのぶどうの木だ」と弟子たちに言われます。これは弟子たちと最後に囲まれた食卓での言葉です。
わたしがこれまで木陰となって、あなたがたを覆い、守ってきた。敵対者の憎しみ、非難、迫害からあなたがたを守ってきた。わたしのもとで、皆は信仰の交わりを楽しんで来た。
この最後のときに、わたしは極みまであなたがたを愛している。死んでもあなたがたを離さない。わたしがあなたがたにいのちを与え、あなたがたのいのちを喜ばせる。わたしがあなたがたのためのぶどうの木となる、とイエスは言われるのです。
弟子たちはよくわかっていなかったかもしれません。しかしすでに彼らはイエスから受けてきた。イエスに守られてきた。イエスのもとで平安と満ち足りた思いを与えられてきたのです。
「わたしにつながっていなさい。」15:4
「つながっていなさい」と言うと、つながったり、離れたり自由にできるかのような感じがするかもしれません。しかしこれはその程度のことではありません。
元のギリシア語原典を直訳すれば
「わたしに中にいなさい。」
「わたしのうちに留まっていなさい」
となっています。
わたしがあなたがたをすでに捕らえ、あなたがたの木陰となり、あなたがたを覆い守ってきたのだから、あなたがたをわたしのうちに引き寄せて生かしているのだから、今あらためてしっかり、「わたしのうちにいなさい。」
続けて言われます。
「わたしもあなたがたにつながっている。」
つながっている程度ではない。
「わたしも、あなたがたのうちにいる」
「このわたしがあなたがたのうちにいる」
約束です。
あなたがたがどうであろうと、わたしはあなたがたのうちにすでに宿っている。
イエスは、最初の弟子たちに対してだけではなく、わたしたちに対しても言われます。
「わたしはまことのぶどうの木」
第一に、わたしがあなたがたの木陰となるから、わたしのもとにいて、くつろぎなさい。平安を得なさい。
♪ いつくしみふかき友なるイエスは
罪、咎(とが)、憂いを取り去りたもう
あなたがたの罪、咎(とが)、憂いを、わたしが引き受けた。わたしがそれをあなたがたから取り去る。
第二に、わたしがぶどうの木となってあなたがたに喜びといのちを与えるから、わたしからいのちを受けなさい。
イエスの言葉がいのちです。けれどもさらに何かにつながります。聖餐式です。聖餐のぶどう酒です。
イエスはわたしたちに「平和」を呼びかけ、ぶどうの実からなるぶどう酒をご自身のいのちとして、わたしたちのために用意していてくださるのです。
今は十分わからなくてもよい。はっきりとわかって喜ぶときが来る。わたしが聖霊を送って皆の心の目を開くから。
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」ヨハネ15:26
「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
」15:27
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」15:1
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」15:5
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」15:4
愛の呼びかけです。わたしたちを守り、生かそうとされるイエスの愛の呼びかけを、冷たい教訓のように読んではいけません。
教会がこのようなイエスの臨在を経験する場所であることを願います。脅かされた人々を主イエスが守ってくださるように願います。
祈ります。
主イエスさま、あなたが約束されたように、あなたがわたしたちのためにぶどうの木でいてください。あなたのもとで平安と、温かな交わりを楽しむことができるようにしてください。そうしてわたしたちもあなたの枝として、あなたの働きをなすことができますように。アーメン