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【説教】ほめたたえます、あなたを 2020/7/6

マタイ11:25
2020年7月5日・聖霊降臨後第5主日
上野聖ヨハネ教会にて

 今日の使徒書と福音書には、思いのほとばしりの言葉が出て来ました。

 使徒書でパウロはこう言いました。

 「24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」ローマ7:24-25

 日本語として整えた訳になっていますが、25節をギリシア語原文の語順のままに訳せば、「感謝、神に」(カリス……)です。

 この惨めなわたしを神が救ってくださった──イエス・キリストによって。その思いが溢れてきて、パウロは思わずそう言ったのです。

 今日の福音書にはイエスの思いのほとばしりがあります。

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。』」マタイ11:25

 今日の福音書の冒頭で、このようにイエスは祈っておられます。その祈りは賛美のほとばしりです。

 ここは原文では「ほめたたえます、あなたを」で始まります。

 このとき、イエスさまはどのような表情をしておられたのでしょうか。

 イエスさまの表情──そんなことを思ってみたことはあるでしょうか? わたしたちは聖書の中でイエスさまの教えを聞き、その行いを知ります。そのとき、イエスさまは無表情であるはずはありません。わたしたちは聖書の中に生きておられるイエスさまを見たい、生きた声を聞きたいのです。

 この場面のイエスさまの表情を想像してみます。イエスは喜びに満ちてほほえんでおられた。場所は戸外かもしれません。その目は開いて天に注がれ、両手は開いて上に向けられた……。

 「ほめたたえます、あなたを!」

 その後に「父よ、天地の主よ」と続きます。

 なぜそういう順序かというと、このとき急にイエスの内側から、喜びと神への賛美がほとばしり出たからです。

 祈ろうとしてまず父なる神に呼びかけて、その後に祈りの内容が続く、という普通の順序ではありません。

「ほめたたえます、あなたを。父よ、天地の主よ……」

 

 今イエスご自身が何かに出会われた、経験された。それに感動して、喜びと賛美の祈りがほとばしり出た。そして神への呼びかけが続いた。それが今日の場面です。

 何があったのでしょう。そこまでイエスが喜ばれたのは何なのでしょう。具体的には書かれていないのですが、その賛美の祈りの続きを聞きましょう。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」マタイ11:25

 「これらのこと」が何かわかりませんが、もっとも大事なことに違いありません。神はそのもっとも大事なことを「知恵ある者や賢い者には隠して」。

 知恵、学識、力、社会的立場や名声を持った立派な人たちには、神はそれを隠された。そしてそのもっとも大事なことを「幼子のような者に」お示しになった。

 神さまが何かとてもとても大事なことを幼子に示された。幼子の中に神さまの賜物、神さまの愛の働きがはっきり存在する。それに今、イエスは触れて、感動して、思わず喜びと賛美の声を上げられた。

「ほめたたえます、あなたを。父よ、天地の主よ……」

 イエスの表情は喜びに輝き、神への感謝と賛美に溢れました。

 ところでその直前、今日の箇所の前の11章24節まで、イエスの表情は悲しみと怒りに曇り、こわばっていました。

「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』」マタイ11:16-17

 イエスは神の国の訪れを伝え、神の愛を示されたのに、冷たい反応しか返って来ませんでした。世と人の悲しみを共にして嘆かれたのに、無関心の壁が立ちはだかっていました。

 コラジン、ベトサイダ、カファルナウム──これらガリラヤの町々で人々を招かれたのに、傲慢な人々は耳を貸そうとせず、自分たちの知恵と力を誇り、過ちを認めるどころかかたくなに居直るような態度を続けています。

 愛の呼びかけと働きかけに対して、返ってきたのは無関心と傲慢と反抗。イエスは人々を愛されるからこそ、悲しみと憤りに耐えなければならなかったのです。

 そうした中で、幼子の中に働く神の愛に思いがけず触れたとき、イエスのうちから感動と賛美の祈りがほとばしり出た。これが今日の箇所です。

 わたしは現職中、長く幼稚園に関わって子どもたちに触れる機会がありました。その中で、「ああ、ほんとうに神さまがこの子らのうちに働いておられる」と感じて、涙することがありました。

 たとえば、子どもたちがクリスマスの歌を歌ってくれたとき、天使の歌を聞く思いでした。

 ちょうど明後日は7月7日、七夕です。何年か前のことです。子どもたちがそれぞれ自分の願いを書いた短冊を笹の葉につけて、それを表の門のところに掲げます。ある朝、わたしが子どもたちを出迎えていたとき、ある女の子が「園長先生、わたしの書いたのどれかわかる?」と言うので、探しました。

「ケーキ屋さんになりたい。」違う。「お花屋さんになりたい。」違う。その子が書いた願いは「世界中が平和になりますように」でした。

 ケーキ屋さんもよい。お花屋さんもほほえましい。けれども「世界中が平和になりますように」という願いがこの子の中にあるのを知ったとき、神さまの愛の働きを知って感動したのでした。

「ほめたたえます、あなたを、父よ、天地の主よ。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」 

 神さまはわたしたちに愛を注ぎ、一番大切なことを、神の真理を悟らせようとしておられます。けれどもそれを妨げるものがあります。それは、謙遜でない知恵と知識、自分を誇る賢さです。もしそれらがわたしのうちにあるなら、それを捨ててしまいたい。たくさんの知識を得て賢くなったとしても、それによって神からのもっと大切なものが見えなくなったとしたら不幸です。幼子のようになりたい。幼子のようになって主イエスとともに神さまを賛美したいと願います。

 神さま、わたしたちを幼子のようにしてください。ほんとうに大切なものを知り、経験できるようにしてください。そしてイエスさまご自身がそうであったように、神さまがわたしたちの間に働いていてくださることに触れて、心を熱くして喜ぶわたしたちにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン