- - 【説教】終わりまであなたの道を
- - 【説教】牧者となられるイエス
- - 【説教】わたしを憐れんでください──バルティマイの叫び
- - 【講話】イエスが祈られた「主の祈り」
- - 【説教】背いた者のために執り成しをしたのは
- - 【説教】御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ
- - 大韓聖公会ソウル教区 金エリヤ主教 就任の辞
- - 【説教】ねたむほどに愛される神
- - 【説教】慰め励ましてくださる神
- - 【一日を終える祈り】
- - 【説教】悪魔の策略に対抗して
- - 【国境を越えて老司祭と分かち合った尹東柱の物語】
- - 【礼拝のための祈り】
- - 【説教】あなたこそ神の聖者
- - 【説教】命を得るために
- - 【聖餐式の言葉から 13】
- - 【説教】天からのパン
- - 【韓国の祈りから 5】俳優、シン・エラの祈り
- - 【説教】エリヤの霊とイエスの霊
- - 【韓国の祈りから 4】不安と恐れを克服する祈り
【説教】御言葉を食べたエレミヤ 2020/8/31
エレミヤ15:15‐21
2020年8月30日・聖霊降臨後第13主日
彦根聖愛教会にて
預言者エレミヤ。今から2600年くらい前の、ユダ王国末期に活動した人です。故郷はアナトト村。エルサレムから東北に向かって歩いて1時間くらいのところです。エレミヤはアナトトの祭司ヒルキヤの子として生まれました。多感で繊細、自然に触れても人に触れても、感じやすい心を持った若者でした。激動の時代です。
当時のユダ王国は、大国アッシリアとエジプトに挟まれ、さらにアッシリアに代わって台頭してきた新バビロニア帝国から圧迫されて、危機的状況にありました。けれどもエレミヤの心をさらに苦しめたのは、人々の心が神から離れて、ぼやけている──何が正しく何が正しくないか、何が真実で何が偽りであるかが判断できない──あるいはすっかり濁ってしまっている、ということでした。
そのような彼は、20歳前後でしょうか、神に捕まってしまいます。神は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、その口にご自身の言葉を入れてしまわれた。彼は願わないのに、一方的に神によって預言者とされてしまったのです。
彼の口に入れられ、彼の身体の中に宿った神の言葉は、今度はしばしば彼の口から出ようとします。エレミヤは黙っていたいのに、自分の中から言葉が溢れ出る。厳しい言葉を語らせられるのです。それは彼に対する非難、迫害を招き寄せることになりました。故郷アナトトの人々までが、彼の命を奪おうとしました。
そのエレミヤの嘆きの祈りが、今日の旧約聖書日課です。
「あなたはご存じのはずです。」エレミヤ15:15
あなたは知っておられます。こう言ってエレミヤは神に訴えます。エレミヤの労苦も嘆きも、情熱も愛も、孤立も迫害も、神は知っておられる。そう彼は信じています。信じつつも、神が沈黙しておられるのが耐えがたい。神はわたしを忘れておられるのか。彼の嘆きと怒りは、ついに迫害する者への復讐を神に求めるところまで達します。
「あなたはご存じのはずです。
主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み
わたしを迫害する者に復讐してください。
いつまでも怒りを抑えて
わたしが取り去られるようなことが
ないようにしてください。
わたしがあなたのゆえに
辱めに耐えているのを知ってください。」15:15
「あなたはご存じです」あなたは知っておられます、と祈った彼は、今は「主よ、知ってください」と嘆願します。知っていてくださるはずの方に、もっとはっきり知ってほしいのです。この現実を、この苦しみを。これ以上はもう生きて行けない、というところまで彼は来ていました。
けれども嘆きの中で、彼は最初の頃のことを思い起こします。
「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。」15:16
彼は世の中に合わせて身を処していく、というふうには生きていけない人でした。彼の魂はほんとうのものを、自分がそれによって生き、それによって死ねるような真理を求めてやみませんでした。
そのような葛藤と苦悶、言わば魂の飢餓の中で、彼は神の言葉と出会ったのです。それは頭で理解し心に留める、という程度のものではありませんでした。神の言葉を「食べた」。それを食べて生きることができる、食べなければ死んでしまう──そういうものだったのです。
「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。」
このように神の言葉は、彼の喜び、また命となった、血肉となったのです。彼は、神の言葉を食べて、命を回復しました。それをいま、思い起こしています。あれほどの喜びはありませんでした。生きてきてよかった。生涯の喜びです。
けれどもその後に起ったことは何か。
彼の命となった神の言葉は、彼の中で燃え上がって、世の中の悪を責める言葉となりました。人々の神への不真実を突き刺す言葉となりました。彼は「争いの絶えぬ者」(15:10)とされ、非難、嘲笑、迫害の対象となりました。彼は深く傷つきました。
彼はいま、神に訴えます。
「なぜ、わたしの痛みはやむことなく
わたしの傷は重くて、いえないのですか。
あなたはわたしを裏切り
当てにならない流れのようになられました。」15:18
「当てにならない流れ」とはいわゆる「ワジ」です。雨期には川になりますが、乾期には干上がってしまう。潤してくださるはずの神に求めたのに、あなたは水のない川だ、と抗議するのです。
やがて神は沈黙を破って答えられました。
「それに対して、主はこう言われた。
『あなたが帰ろうとするなら
わたしのもとに帰らせ
わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが軽率に言葉を吐かず
熟慮して語るなら
わたしはあなたを、わたしの口とする。
あなたが彼らの所に帰るのではない。
彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
……
わたしがあなたと共にいて助け
あなたを救い出す。』」15:19-20
この言葉をエレミヤは再び食べるように心と体に受け入れて、立ち直ります。この言葉によって神が彼を預言者として再建された。立て直されたのです。
「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。」
御言葉を食べて生きる──そのようなことを聖書の中で聞いたことはあるでしょうか。実はイエスさまがそうだったのです。
エレミヤからおよそ600年後、イエスさまが30歳のときです。公に働きを開始される前、荒野でひとり断食し弱り果てたとき、サタンの誘惑にさらされました。
サタンがイエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と言ったとき、イエスはこう答えられました。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」マタイ4:4
「書いてある」というのは、旧約聖書の申命記(8:3)に書かれているいうことです。
「神の口から出る一つ一つの言葉」──神の口からエレミヤの口へ、神の口からイエスの口へ。口移しのように、命の言葉が与えられて、それを食べた。イエスは食べて生かされて生きた。かつてエレミヤが神の言葉を口に入れられて生きたように。また後に回想して、それがいかに喜ばしくおいしい命の糧であったかを確かめたように、主イエスは神の言葉を、聖書の言葉を食べて生きておられました。それだからこそ、今日の福音書で聞いたように(マタイ16:21-27)、イエスは十字架への道を歩み通されたのです。
同じことを、程度の差はあっても、わたしたちも経験したい。わたしたちも神の言葉を食べて生きたい。御言葉は知識として情報として通り過ぎるものではありません。わたしたちの中に宿ってわたしたちの命となるのです。神はわたしたちを生かそうと願って、御言葉を与えようとしておられます。
聖書はわたしの外から、わたしの内に、神の声を聞かせます。今日、エレミヤが聞いたこの言葉をわたしたちもいただきましょう。
「わたしがあなたと共にいて助け
あなたを救い出す。」15:20
祈ります。
神さま、あなたは知っておられます。わたしたちの労苦と怠慢を、わたしたちの喜びと失望を、あなたは知っておられます。かつてエレミヤがあなたの御言葉を食べて生かされたように、わたしたちにも命の御言葉をお与えください。それを食べて生きるように、聖書を愛させてください。イエスさまのみ名によってお願いいたします。アーメン