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- - 【説教】夕べになっても光がある
- - 【聖餐式の言葉 15】天におられるわたしたちの父よ(主の祈り)
- - 【聖餐式の言葉から 14】取って食べなさい
- - 【説教】見よ、その方が来られる
- - 【説教】終わりまであなたの道を
- - 【説教】牧者となられるイエス
- - 【説教】わたしを憐れんでください──バルティマイの叫び
- - 【講話】イエスが祈られた「主の祈り」
- - 【説教】背いた者のために執り成しをしたのは
- - 【説教】御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ
- - 大韓聖公会ソウル教区 金エリヤ主教 就任の辞
- - 【説教】ねたむほどに愛される神
- - 【説教】慰め励ましてくださる神
- - 【一日を終える祈り】
- - 【説教】悪魔の策略に対抗して
- - 【国境を越えて老司祭と分かち合った尹東柱の物語】
- - 【礼拝のための祈り】
- - 【説教】あなたこそ神の聖者
- - 【説教】命を得るために
【購入案内】『あなたは何を見るか──エレミヤ書講話』
井田 泉『あなたは何を見るか──エレミヤ書講話』
かんよう出版、2019、252頁、1980円(税込)
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【目次】
一 エレミヤの召命
エレミヤ
主の言葉が臨む
あなたは何を見るか
煮えたぎる鍋
二 悪と嘆き
神の愛
エレミヤの時代の悪
神の呼びかけ
エレミヤの嘆き
三 告白 Ⅰ
告白1 故郷アナトトの人々のエレミヤ暗殺計画
告白2 かつての喜ばしい経験と今の苦しみ
四 告白 Ⅱ
告白3 あなたこそわが避け所
告白4 計略
告白5 火のような主の言葉
エレミヤとイエス
平和の計画・希望の約束
五 エレミヤを支えた人々
エレミヤの孤独
神殿におけるエレミヤの説教
エレミヤを守った人々
六 とこしえの愛
「契約」とは何か
とこしえの愛
失われた者たちを呼び集められる神
七 未来の希望
散らされた者を集められる神
その魂は潤う園のように
八 喜びを与える子
嘆きを聞かれる神
立ち帰らせてください
わたしのかけがえのない息子
彼のゆえに胸は高鳴り
九 主による新しい創造
イスラエルよ、立ち帰れ
主による新しい創造
正義の住まうところ
わたしは目覚めて
十 新しい契約
再建―神の計画と決意
宿命論の終わり
新しい契約
心に記される神の教え
これを実現してくださるのは聖霊
救い主の降誕
あとがき
【あとがき】
京都復活教会の聖書研究会でエレミヤの話を始めたのは、2004年1月20日でした。牧師館集会室の畳の部屋で机を囲んで、毎回10名ほどの熱心な方々が月1回の集まりに参加されていました。
当時わたしは50代前半。数年患ったうつ病から次第に回復してきていた頃でした。京都復活教会の牧師と復活幼稚園園長を兼ねて多忙な日々を過ごしつつ、自分の魂の枯渇を感じることがあり、 また教会にとっても 「神の霊」 「聖霊」 についての理解を深める必要を強く感じていました。
そこで前年の2003年5月から「神の霊について」の話を始め、旧約聖書の初めのほうから関連箇所をたどっていきました。そうしてやがてその関心の中で、 「エレミヤ書」を取り上げることになったのです。本文中にやや唐突に「霊」についての言及がしばしば出てくるのは、そういう背景があります。
エレミヤの話はおよそ一年の間に10回を重ねて、2004年12月14日に終わりました。第10章でクリスマスと聖霊について話しているのは、ちょうど時期がその頃だったからでもあります。
思い返せば、わたしの預言者エレミヤへの関心は学生時代にさかのぼります。学園紛争のまっただ中、教会にも青年による「教会革新運動」の嵐が吹き荒れていました。わたしは幼い頃からの素朴な信仰が揺らいで神様を見失い、魂の彷徨のうちにありました。何とか生きるための確かな手がかりを見出したいと哲学書、思想書を持ち歩きました。
同時に、聖書の中に生きた神の言葉があるのなら、何としてもそれと出会いたいと切望していました。そうした頃、わたしの心から離れなかったのは、 「主よ、わたしがあなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。しかしなお、わたしはあなたの前に、さばきのことを論じてみたい。悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか」 (エレミヤ書第12章1節。日本聖書協会口語訳)というエレミヤの嘆きの訴えでした。
わたしは一方で自分のメールアドレスに「イザヤ」を用いるほどに、預言者イザヤとイザヤ書を愛していますが、心情的にはエレミヤにもっとも近いものを感じます。エレミヤの嘆きはわたしの嘆き、エレミヤの涙はわたしの涙のように思えてしまうのです。
今回原稿を整えながらあらためてエレミヤに思いを馳せたとき、わたし自身は彼のように命に関わる迫害や極度の孤立を経験はしてこなかったものの、しかしささやかながらも同質の苦しみを味わわなかったわけではないことを告白したい気がします。と同時に、自分の不忠実や不徹底を思わずにはいられません。
エレミヤ書をともに読んだ京都復活教会での聖書研究会からはすでにおよそ一五の歳月が流れました。いま鮮明に思い出すのは、あの集まりの中で何度か、間近にエレミヤ自身が立って語っているような気がしたことです。集会のために用意したのは、毎回一頁程度のレジュメでした。
しかし参加者の中に毎回録音をしてくださる方があって、それが歳月を経てこのような形になりました。不思議な恵みを思わずにはいられません。
……
2019年12月1日 降臨節第1主日