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【聖書協会共同訳「詩編」の日本語について──個人的印象(3)】
詩編102編を例に、主(あなた)を主語とする文の動詞の尊敬語の有無を調べてみました。
17節
「主はシオンを築き
栄光のうちに姿を現されます。」 敬語あり
18節
「主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。」 敬語なし
20節
「主はその聖なる高き所から目を注ぎ
天から地を見ました。」 敬語なし
24節
「主は道半ばで私の力を挫き
私の生涯を短くされた。」 敬語あり
27節
「天地は滅びるが、あなたは立っておられます。」 敬語あり
このように敬語の有無が混在しています。翻訳・編集過程においてどう判断されたかのかはわかりません。
わたしが自分の祈りとしてこの詩編を祈るとき、特に18節が困ります。
「主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。」
ここは
「……その祈りを軽んじられませんでした」
としたいのです。