- - 【講話】アブラハムの物語(3)
- - 【説教】シラ書に学ぶ信仰と知恵
- - 【講話】教会の戦争協力への反省から
- - 【論文】『基督教週報』に見る紀元節大礼拝(1939年)
- - 【聖餐式の言葉から 5】
- - 【説教】御言葉を食べたエレミヤ
- - 風が吹いて【尹東柱の詩 5】
- - 【講話】アブラハムの物語(2)
- - 【説教】主よ、わたしを憐れんでください
- - 【第8回 日本聖公会 いのちをみつめる祈りの集い】「教会の戦争協力への反省から」
- - 【聖餐式の言葉から 4】
- - 【説教】祈っておられるうちに
- - 【説教】執り成してくださる方
- - 弟の印象画【尹東柱の詩 4】
- - 【説教】種を蒔くイエス
- - 【聖餐式の言葉から 3】
- - 【説教】キリストの中に入る洗礼
- - 【聖餐式の言葉から 2】
- - 【説教】一人の従順によって
- - 【説教】鷲の翼に乗せて
【聖書協会共同訳「詩編」の日本語について──個人的印象(3)】
詩編102編を例に、主(あなた)を主語とする文の動詞の尊敬語の有無を調べてみました。
17節
「主はシオンを築き
栄光のうちに姿を現されます。」 敬語あり
18節
「主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。」 敬語なし
20節
「主はその聖なる高き所から目を注ぎ
天から地を見ました。」 敬語なし
24節
「主は道半ばで私の力を挫き
私の生涯を短くされた。」 敬語あり
27節
「天地は滅びるが、あなたは立っておられます。」 敬語あり
このように敬語の有無が混在しています。翻訳・編集過程においてどう判断されたかのかはわかりません。
わたしが自分の祈りとしてこの詩編を祈るとき、特に18節が困ります。
「主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。」
ここは
「……その祈りを軽んじられませんでした」
としたいのです。