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【説教】わたしは主を見ました──マグダラのマリアの物語
ヨハネによる福音書 20:1-18
2024年7月21日・聖霊降臨後第9主日
聖光教会にて
明日7月22日は「マグダラの聖マリヤ日」です。それで今日はマグダラのマリアのお話をすることにします。復活されたイエスに最初に出会ったのはマグダラのマリアでした。
マグダラはガリラヤ湖の西岸の町。そこの出身なので「マグダラのマリア」と呼ばれます。彼女はどういう人だったのでしょうか。
かつてマグダラのマリアは、重い病に苦しんでいました。その苦しみは体だけではなく、むしろ心のほうにあったようです。自分の中に自分ではどうすることもできない何かが取りついていて、それがいつも自分を抑えつけている。それはもう「悪霊」としか言いようのないもので、しばしば勝手に自分の中で暴れ出し、手の付けられないような状態になるのです。自分の魂は押しつぶされたようになって、恐れ、憎しみ、怒り、絶望から、自分と人を傷つけるような言葉や行動が起こってしまいます。
たくさんの医者にもかかり、占いやまじないをする人たちの所にも連れて行かれましたが、少しもよくなりませんでした。死のうとして死ぬこともできず、自分を責めて、自分を呪って、この世を憎みました。神に救いを切に求める自分があるかと思えば、自分を救うことのできない神を呪うことさえありました。神はこのような自分を罰するに違いない、と思っていました。
あの人は「七つの悪霊に取り憑かれている」(ルカ8:2、マルコ16:9)と世間では言っているようでしたが、自分でもそう思っていました。
ところがある時、イエスという人と出会いました。イエスの話を聞いていると、これまで思ってきたような神とは違う、自分を責めるのではなく肯定し受け入れてくれる確かな存在であるように感じました。もう他に自分が行くところはない。このイエスについて行こうと決心しました。このイエスについて行って、生きるなら生きる、死ぬなら死ぬ、と決めたのです。
イエスに従って歩むうちに、荒れ狂っていた自分は少しずつおさまって、反対にこれまで経験したことのない平安と慰めを感じて、生きる力が与えられるようになっていきました。
……
※写真は当日朝の聖光教会(京都市左京区松ヶ崎)