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大韓聖公会ソウル教区 金エリヤ主教 就任の辞

大韓聖公会ソウル教区 第7代

金ジャンファン・エリヤ 主教聖品式・昇座式 <就任の辞>

2024年9月26日 大韓聖公会ソウル教区主教座聖堂

 

ソウル教区第7代教区長に叙任された金ジャンファン・エリヤ主教です。足りない僕の叙任式のためにご苦労をおかけした多くの方々、そして参加された皆さまに深く感謝申し上げます。(お辞儀・拍手)

特に遠く外国から来られた聖公会家族、そして他の教団から来られたすべての皆さまにも感謝を申し上げます。

主教に選ばれてからよく言われる言葉があります。「おめでとうございます」という挨拶です。お祝いしてくださり、励ましてくださることを深く感謝しております。けれどもその挨拶を受けるたびに、あるいは世俗的な考えでおめでとうと言われているのではないか、という思いが起こってきました。そうして、イエスさまの言葉が思い出されます。

「偉い人たちは権力で抑えつけている。しかしあなたがたはそうであってはならない。あなたがたの中でだれでも高い人になろうとする人は、人に仕える人でなければならない。人の子も仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのであり、また多くの人のために命を捧げて身代金を払うために来たのである。」マルコ10:42-45

 

世界はピラミッド構造です。富と身分と権力で人を評価します。高い地位に上れば栄転したと言います。栄転したと私に蘭の鉢植えを送ってくださった方もおられます。もちろん信者さんではないと思いますが、主教職を高い権力の地位と理解されているようです。

イエス様は私たちに仕えるために来られた神様です。その愛のために十字架で死なれました。 教会はこの方の血の値によって建てられた愛の共同体です。ですから教会は世の中とは正反対の逆ピラミッド構造、神の国の共同体です。それでイエス様は断固として言われました。

「あなたがたはそうであってはならない。」

私が聖書的リーダーシップについて教友たちに講義する時、このような質問を投げかけます。イエス様は私たちのために死んでくださいました。ではイエス様の次に死ぬ人は誰でしょうか。こう質問すると、信者さんたちは司祭さんです、とおっしゃいます。その時私は、違います、主教様です。そう申し上げてきたのですが、私は今、イエス様の次に死ぬ者としてここに立っております。

 

叙任のためのリトリートの間、梅雨の時期で雨風が吹くことが多かったです。強い風を受けて揺れても、空に向かってしっかりと立っている木を眺める時間をよく持ちました。木は大地に深く根を下ろし、下の枝が上の枝を支えています。それで強い風が吹いても持ちこたえて、鳥たちは巣を作って自分の場所を守ります。教会は木のようだと思います。神様に深く根を下ろされた木であるみ子イエス様にくっついている最も下の枝が主教です。下の枝である主教が上の枝である司祭と信徒を支えながら、木は育っていきます。そうして育っていく木は広い日陰を作り、疲れた人や辛さを抱えた人が来て休む愛の懐となります。このように主教職は、すべての枝を支える最も低い場所、仕える場所です。

 

私の名はエリヤですが、主教に選ばれてエリシャであればよかったのにと思いました。エリシャがエリヤに、神様の力を自分に2倍与えてほしいと求めて、そのとおりに聞かれたからです。

韓国人の初代主教・李天煥主教様、そして金成洙主教様、丁哲範主教様、朴耕造主教様、金根祥主教様、李京浩主教様ら歴代主教様方が、ソウル教区に仕えてこられたその力の2倍を受けたいと願います。ソウル教区が2倍に復興(リバイバル)することを願います。もちろん教会の復興は、数値目標を立ててキャンペーンを張って実現するものではありません。韓国社会においてキリスト教は急激に衰退しています。しかし教会が教会の本質を回復するなら、教会が教会らしくなるなら、時代と状況がどうであれ、教会の主である神様がその教会を用いてくださいます。

ですから何よりも、ソウル教区の聖職者、信徒の皆さんに、私たち全員に、教会を教会らしく回復させることを願います。私たちの聖公会を主の教会として正しく建てたいという情熱と献身が倍加されることを願います。

 

ハンス・キュンクという神学者は、ニケヤ信経にある教会についての四つの告白を教会の本質として語ります。一つであり、聖であり、公同の、使徒から続く教会。この告白に私たちの教会の名前が出て来ました。聖なる公教会、聖公会。あまりにも良い名前です。聖公会は名前だけではなく、抱いている信仰の精神と典礼等はとても良い教会です。私の同僚の司祭の表現を借りれば、地上最善の教会です。同意されませんか(笑)。

しかし私はこの四つの本質の中で、今この時代の私たちの教会が緊急に回復しなければならない本質があると考えます。使徒性です。歴史的主教職、3聖職として続いてきた使徒性の意味するところは二つです。使徒的教えと使徒的実践です。使徒的教えとは、使徒たちが宣布し教えた神の国の福音を指します。使徒的実践とは、主の血の値によって建てられた教会を通して、この世界に神の国を実現していく宣教を言います。

 

私たちの聖公会は、宣教をどうしようかと悩む必要がありません。神の国拡大のために提示されている世界聖公会の宣教精神5指標。それをそのまま実践すればよいのです。私たちの信徒の皆さんは覚えておられるでしょう? はい、それならカンニングしてしてください。一緒に言いましょう。

1 神の国のうれしい知らせを伝えます。

2 新しい信徒を教え、洗礼を授け、養育します。

3 愛によって隣人の必要にこたえます。

4 あらゆる暴力に反対し、不義の社会構造を変化させていきます。

5 創造秩序を保全し、地球の生命の維持と回復と維持のために献身します。

 

主教に選ばれて、恐れと震える思いで主の前に祈る時、主がくださった御言葉が、コリントの信徒への手紙Ⅰ、11章1節です。

「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」

私がこの御言葉を分かち合うと、「お前を見習えだと?」と思われる方がいらっしゃったようです。しかし私は使徒性を回復する教会となるために、まず主教である私が、キリストに倣った使徒に倣おうと思います。

使徒たちが宣教のために、祈りとみことばを伝えることに専念したように、教会と世界のために祈り、神の国の福音を宣布することに専念しようと思います。あえて私を見習えと言えるような主教になるように努力します。

 

使徒ペトロの言葉です。

「あなたがたは、キリストの苦難にあずかることをむしろ喜びなさい。あなたがたはキリストが栄光に満ちて現れる時、喜んで飛び跳ね、楽しむことになるでしょう。」ペトロⅠ 4:13

教友の皆さんが私にくださったお祝いの挨拶は、まさにこの御言葉に基づくものだと思います。 皆さんも一緒にこの喜びを享受できるように、宣教に献身することによってキリストの苦難にあずかることができるようにと願います。

それでは、就任の挨拶を、聖イグナチオ・デ・ロヨラの祈りを一緒にささげながら終えることにします。一緒に祈りましょう。

よき主よ! 私のすべての思いと行いと努力が、ただ神様の栄光と神様への奉仕のためだけに用いられるように、恵みを与えてください。アーメン

ありがとうございました。(拍手)

 

※聖書の引用および聖公会5指標は、語られたとおりを直訳しています。

(訳・井田 泉)