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【説教】わたしを憐れんでください──バルティマイの叫び
マルコによる福音書 10:46-52
2024年10月27日・聖霊降臨後第23主日
京都聖三一教会にて
聖書の中にはたくさんの人が登場します。その中には繰り返しその名前が出てくる人がいます。例えばペテロ(ペトロ)。ふと気になったので新共同訳聖書で何回出てくるか数えてみました。するとペテロは201回です。
その反対にその名前が1回しか出て来ない人もいます。今日の福音書のバルティマイもここだけ、このマルコ10章16節に1回だけです。同じ物語はマタイ福音書にもルカ福音書にも記されていますが、そこには名前はないのです。エリコの町で、道端に座って物乞いをしていた盲人バルティマイ。このバルティマイに今日は関心を向けてみることにしましょう。
ところでこのバルティマイとわたしたちには、共通していることがあります。わたしたちというのは、今日このように聖餐式を一緒にささげているわたしたちです。何かと言うと、バルティマイとわたしたちは同じ呼びかけを、同じ祈りを、イエスに向かってしている。気づかれたでしょうか。先ほど一緒に唱えた言葉です。
「主よ、憐れみをお与えください」「キリエ、エレイソン」
今日のマルコ福音書を初めから読んでみましょう。
「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」10:46-48
イエスよ、わたしを憐れんでください。
この呼び求め、この祈りを、わたしたちはバルティマイと共有しているのです。
「主よ、憐れみをお与えください」。
もしわたしたちが、ただ祈祷書にそう書いてあるからそう唱えている、というだけなら、バルティマイとわたしたちの関係は言わば形式的なものです。けれどもわたしたちが、バルティマイのように、ほんとうに助けを、救いを必要としていて心からイエスに呼び求めるなら、この聖書のバルティマイは、わたしです。彼の中にわたしがいます。
……