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【説教】み顔の光を仰ぎ見
出エジプト記 34:29-35
ルカによる福音書 9:28-36
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13:8-12
2025年3月2日・大斎節前主日
上野聖ヨハネ教会にて
大斎節を目前にした今日の特祷に「み顔の光」という言葉がありました。み顔とは神さまの顔です。どうかわたしたちが、神さまのみ顔の光を仰ぎ見ることができますように、という祈りを献げたのです。それはわたしたちが、神さまをより近く感じながら生きるためです。
わたしたちは普段、「神の顔」などということを考えたり想像したりすることはあまりないかもしれません。けれども聖書には神の顔、主イエスの顔のことが書かれていますので、今日はそれに近づいてみたいと思います。
「神の顔」について、古くからの大切な言い伝えがあります。アブラハムの孫、ヤコブの物語です。ヤコブは兄エサウの激しい憎しみを買い、遠くに身を避けて暮らしました。20年ぶりに一家を率いて戻って来たのですが、ヤボク川の前に立ち止まって向こうに渡る決心がつきませんでした。エサウが恐ろしい。自分は殺されるのではないかと心配でならないのです。ヤコブは恐怖を抱え、一晩中祈って神と格闘しました。その果てにヤコブは神の祝福をいただき、川を渡る決心がつくのですが、そのとき彼はこう言いました。
「わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている。」創世記32:31
人は神の顔を見ることはできず、万一それを見た者は死ぬ、と信じられていたのです。ヤコブはその場所を「ペヌエル」(神の顔)と名付けました。彼は、自分が神の救いの奇跡を経験したことを地名として刻みつけたのです。
さて、今日の旧約聖書です。イスラエルの民を奴隷の家、エジプトから脱出させたモーセは、人々をシナイ山に導きました。そこでモーセは人々を麓に待たせてさらに山を登り、神と出会います。そして神の手から十戒を刻んだ2枚の石の板を受け取りました。ところが山を下りてきたモーセが見たのは、早くも神を忘れて金の子牛を拝んで踊り狂う人々の姿でした。激怒したモーセは、せっかく神からいただいた2枚の石の板を投げつけて砕いてしまいます。
人々は自分たちの過ちを嘆き、モーセは人々の罪を命がけで執り成して神に祈りました。そうして神の赦しを得て、もう一度山に登って十戒を刻んだ板を神からいただきます。そこから今日の箇所に続きます。
「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」
出エジプト記34:29-30
自分は知らなかったけれども、モーセの顔の肌が光を放っていたというのです。神と語っている間に。モーセの顔の輝きは、神の顔の輝きを反射していた、ということではないでしょうか。神と離れて人々のところに戻って来ても、モーセの顔は光を放っている。「彼らは恐れて近づけなかった」。神が間近におられるのを、モーセの顔の光をとおして感じた。神を畏れる、ということを彼らは本当に知り、経験したのでした。
やがて神の民の中にこのような祈りが生まれました。
「神よ、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。」詩編80:4
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