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【説教】わたしのうちに清い心を造ってください

詩編 51:1-10

聖霊降臨後第14主日・2025年9月14日
聖光教会にて

 今日は先ほどご一緒に交唱した詩編第51編を読んでみることにしましょう。この詩編は150編ある詩編の中でも代表的なものの一つで、ここでは詩人(詩編作者)が自分の罪を神の前に告白して、赦しと救いを切に祈り求めています。

 ところで、キリスト教信仰において何が大切か、問われたら、どう答えるべきでしょうか。わたしはこの詩編を読んで、一つの言葉が浮かびました。それは「信仰的良心」という言葉です。神の前に良心を持って生きたいと願う。間違ったことをすれば心が痛む。赦しを必要とするし、赦しを受けることによって新しく生かされて、まっとうに生きることを決意する。これが信仰的良心です。このことが曖昧になってしまっていないだろうか、と反省します。さて、詩編第51編に耳を傾けてみましょう。祈祷書の詩編を用います。

 1 神よ、慈しみによってわたしを顧み‖ 豊かな憐れみによって、わたしのとがを赦してください
 神に赦しを求めて祈っています。「わたしのとが」。自分が間違ったことをした。心を突き刺すような痛み、耐えきれない重荷を心に抱えて、神に、神の憐れみにすがる以外にないのです。
 2 悪に染まったわたしを洗い‖ 罪深いわたしを清めてください
 3 わたしは自分の過ちを認めています‖ 罪はいつもわたしの目の前にあります
 「悪に染まったわたし」「罪深いわたし」。もうごまかすことも曖昧にすることもできない。「わたしは自分の過ちを認めています」。このわたしを清めてください。
 4 わたしはあなたに罪を犯し、あなたの前で悪を行いました‖ あなたがわたしを審(さば)かれるとき、その審きはいつも正しい

 この人は、神の前で、神に対して罪を犯した、と告白します。赦しを求めてうめきつつ、神の正しい審きに服します。神に罰していただかなければ自分の救いはない、とまで感じます。

 それにしてもこの人の罪、この人の犯した過ちとは何なのでしょうか。どんなに大きな悪なのでしょうか。実は、祈祷書には省かれていますが、この詩編第51編には前書があります。新共同訳で見るとこう書いてあります。

 「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」

 「指揮者によって」というのは、この詩編が礼拝で指揮者のもとで歌われた、ということでしょう。「ダビデの詩」とありますが、おそらくは後の時代の人がダビデの出来事を自分に重ねて祈ったものでしょう。ダビデはイスラエルの繁栄を築いた、信仰深いとされる王です。ところがさらにこう書かれています。

「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」

 いったい何があったのでしょうか。ここで旧約聖書・サムエル記下第11~12章に記された出来事に触れなければなりません。

……