• 個人誌 Ariel
  • 井田泉ブログへ
  • Facebookへ

新着情報

アーカイブ

【説教】神様、罪人のわたしを憐れんでください

ルカによる福音書 18:9-14

聖霊降臨後第20主日・2025年10月26日
京都聖三一教会にて

   *

ルカによる福音書を読んでいると、祈っておられるイエスの姿に何度か出会います。イエスはひとり祈り、弟子たちとともに祈り、大勢の人たちと一緒に祈られました。
また弟子の一人の求めに答えて、「祈るときには、こう言いなさい」と言って「主の祈り」を教えてくださいました(ルカ11:2)。それでわたしたちはこの礼拝でも、またひとりのときも、イエスが教えてくださった「主の祈り」を祈るのです。

イエスにとって、祈りは神様との真心からの交わりでした。祈りをとおしての神様との交流が、イエスの命でした。祈りにおいてイエスの思い、大小の重荷を抱えての訴えは神に届き、また神様の思いと神様の力は祈りのうちにイエスに注ぎ込まれました。

今日ご一緒に唱えた詩編84編もまた、イエスのうちに蓄えられていて、この詩編の言葉がイエスご自身の祈りとして神に届いていたはずです。わたしたちが詩編を唱えるとき、イエスが一緒に祈っていてくださいます。

そのイエスにとって、とても苦痛になる祈りがありました。ある人々が神殿で唱える心のない祈り、大通りで人に聞かせようとするかのような大声の祈り。それはイエスの魂を深く傷つけ苦しめました。それは祈りのようであって祈りではない。それならむしろ沈黙しているほうがよい。

そのようにイエスが苦痛に感じる祈りをしていたのはだれかというと、ファリサイ派です。ファリサイ派。当時、人々の間で非常に大きな影響力を持っていた熱心な信徒グループです。ファリサイ派の中には多くの律法学者、つまり聖書学者がいました。聖書に非常に詳しいし、その教え、掟を熱心に実行する。祈りも献金も熱心にする。模範的と見なされた人々です。そのファリサイ派の人々の祈りが、イエスには耐えられないほど苦痛でした。もちろん、大勢のファリサイ派の中には、そうではない、真心からの祈りをする人々もいたに違いありません。けれども強い影響力を持ち、一般の人々から恐れられているほどのファリサイ派の祈りの多くは、イエスが願われないものだった。そこにはうぬぼれがあり傲慢があり、自己宣伝があって、真心がないからです。

ファリサイ派は力を持っています。人々の多くは、ファリサイ派の祈りが祈りだと思ってしまう。それでイエスはどうしても、今日の話をしなければならなかったのです。ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りのたとえです。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」ルカによる福音書18:10-12

……