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【説教】来るべき方は、あなたでしょうか

マタイによる福音書 11:2-11

降臨節第3主日・2025年12月14日
聖光教会にて

   *

「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」マタイ11:3

これは洗礼者ヨハネのイエスに対する質問です。ヨハネはイエスに洗礼を授けた人です。しかもそのイエスを世に来るべき救い主として指し示してきた人です。そのヨハネは、今は秩序を破壊する危険分子として捕らえられて、獄につながれています。

投獄されているということ自体が苦しく辛いことなのですが、それ以上にヨハネを苦しめていることがありました。迷っていることがありました。それは、自分が指し示してきた、人々にそのように伝えてきたそのイエスが、ほんとうに聖書が約束している「来るべき方」なのか、神から遣わされた救い主なのか、という疑問でした。

これはわたしたちが想像する以上に、ヨハネにとっては苦しいことであったに違いありません。自分の生涯をかけて語り、伝えてきたことがもし間違っていたとしたら、自分の人生は何だったのか。
 
わたし自分に当てはめて考えてみました。わたしは46年間、司祭として働いてきました。牧師として働き、幼稚園の責任も持ち、ある時期は大学、ある時期は神学校の教師でした。いろんなことに関わり、さまざまなことをしたにせよ、自分がしてきたこと、語ってきたことは、ただ一つの目的がありました。それは、イエス・キリストがわたしたちの救い主、世界の救い主であることを伝える、ということでした。

それがもし、イエスが救い主ではなかったとすれば、イエス・キリストが人を、世界を救う力を持たないのだとすれば、わたしの人生は何だったのでしょう。あまりに空しいことではありませんか。

ヨハネの迷い、苦しみには理由がありました。それは、自分が思っていた「来るべき方」のイメージと、現実のイエスとはかなり大きく違っている、ということです。はっきり言えば、神から遣わされる「来るべき方」とは、もっと厳しく罪を責め、悪しき者を容赦なく滅ぼすはずだったのです。ところがイエスはどうもそうではない。たしかにイエスは、地上の権威を恐れず、有力者や指導者を厳しく批判して、権威筋からは憎まれ、迫害されている。けれどもヨハネは思うのです。イエスは優しすぎる。もっと厳しく激しく、神に逆らう者たちを責めて、滅ぼすべきではないのか。

ヨハネは迷いました。「来るべき方」についての自分の考えが間違っていたのか、それとも「来るべき方」がイエスであると思ったのが間違いだったのか。他の人の意見を聞いても仕方がありません。ヨハネは獄中で迷い苦しんで、とうとうイエスに直接この疑問をぶつけることにしました。そこで自分の弟子たちを送って、直接イエスに尋ねたのです。

……