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【説教】あなたはその岩を打て

出エジプト記 17:1-7
ヨハネによる福音書 4:5-26,39-42

大斎節第3主日・2026年3月8日
聖光教会にて

 *

今日の聖書で、わたしたちはひどい渇きを持つ人々に出会います。旧約聖書・出エジプト記第17章では出エジプト後の荒野を旅する民、ヨハネ福音書ではサマリアの女。その人々に神は、イエスはどう対されたでしょうか。もしわたしたちが渇きを持っているなら、心の奥に救いを求める切なる思いを持っているなら、この人々はわたしたちのことでもあります。

まず出エジプト記17章を読みましょう。

「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、『我々に飲み水を与えよ』と言うと、モーセは言った。『なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。』しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。』」17:1-3

水がない。ものすごい渇きのゆえの不満と怒りは、モーセを石で打ち殺そうとするまでに燃え上がりました。モーセは神に訴えました。

「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています。」

すると主はモーセに、「あなたの杖を手に持って行け」と言われました。その杖とは、羊飼いの杖ですが、同時に、モーセが神様から授かった杖。モーセの使命を示す杖です。神がともにおられることを示す杖です。主は言われます。

「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」17:6

今、ここはシナイ山、別名ホレブの山の中です。神は、渇きのゆえにモーセに向けられている人々の不満と怒りを、ご自分が引き受けて立つ、と言われるのです。
「『わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」

その岩は神のおられる場所です。その岩を、モーセは神が言われたとおりに杖で打った。おそらく、そっと打ったのではなく、人々の前で激しく打ったのではないでしょうか。岩にひびが入って、その裂け目から水が溢れ出した。その溢れ出た水を飲んで、人々も家畜も渇きを潤し、渇き死ぬことを免れて旅を続けることができた。こういう出来事です。

旧約聖書では、神はしばしば岩にたとえられます。たとえば詩編18編です。ダビデの歌とされるものです。

「主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ……。」18:3

このように詩編では繰り返し神が岩として歌われます。わたしたちの危機にあって、神はわたしたちの揺るぎない土台、足場、守りであることを、わたしたちの信仰の先輩たちは歌ってきたのです。

そこで今の物語の岩についてひとつ想像してみます。神がそこに立つと言われたホレブの岩。モーセが杖で打った岩とは、神様ご自身だったのではないか。渇く人々の苦しみと怒り、モーセの叫びを前にして、「わたしが前に立とう。わたしが責任を引き受けよう。モーセを打つのではなく、わたしを打て」と神は言われたのではないか。神は人々の訴え、要求、不平、怒り全部を引き受けて、ご自分を打たせた。そうしてご自分が傷つかれたその傷、裂け目から、命の水を提供して人々を潤し救われた。ここにはキリストの影があるようにも思います。

ところで新約聖書のパウロがこのように語っています。
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:1-4

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