- - 主の道を歩もう
- - わたしを思い出してください
- - 「救いの杯を上げて」詩編に親しむⅡ
- - 善を行うことを学べ
- - 【ラジオ】愛―深い憐れみと強烈な怒りの根源
- - その衣を小羊の血で白くした
- - 【ラジオ出演のお知らせ】
- - 気を落とさずに、絶えず祈れ
- - 「大嘗祭」についてのQ&A
- - 【日本聖公会】天皇の退位と即位に関する声明
- - キリストと共に生きるようになる
- - 信仰を増してください
- - アモスの告げた主の言葉
- - イエスの話を聞こうとした人たち
- - 主イエス・キリストからの恵みと平和が
- - 音楽鑑賞会~礼拝堂で宗教音楽を聴く
- - あなたの憐れみが
- - エリヤは自分の外套を
- - わたしたちに祈りを教えてください
- - 2019原爆記念の日 平和の祈り
- - 愛する御子の支配下に
- - 聖霊の賜物
- - 聖なる神──イザヤの召命
- - 祈ってくださるイエス
- - 「ウィリアム・ティンダル 司祭 1536」
- - 詩編に親しむ
- - イザヤ――聖なる神との出会い
- - サウロの洗礼とアナニア
- - 奈良基督教会修養会「詩編に親しむ」
- - パトモスのヨハネの霊的経験
- - 主の復活を知らされた女性たち
- - 2019 奈良基督教会 イースターのご案内
- - 書評 呉寿恵『在日朝鮮基督教会の女性伝道師たち──77人のバイブル・ウーマン』
- - 2019奈良基督教会イースターご案内
- - 桃山学院教育大学入学式での君が代斉唱の中止を求める要望書
- - 人はパンだけで生きるものではない
- - 尹東柱 詩 対訳 20190114
- - 【冊子】朝鮮独立運動100周年 日本聖公会公式交流35年を迎えるにあたって 2019
- - 祝福されよ、主に信頼する人は
- - 女預言者アンナの物語
- - 新約聖書「第一コリント書」
- - 良いぶどう酒を 用意していてくださるイエス
- - 箴言11
- - 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
- - 2018 クリスマス・平和の祈り
- - 2018 奈良基督教会 クリスマス礼拝ご案内
- - クリスマス・ページェント(聖劇)の世界 2018
- - 箴言10
- - 黙想と祈りへの招き 【当日プログラム】
- - 黙想と祈りへの招き─ 降臨節を前に ─ 2018/11/18
- - 詩編とわたし
- - 詩編第16編 詩編第4回
- - マリアの親戚エリサベトの物語
- - 聖歌113(くしく光る明星の)について
- - 涙を拭われる神(逝去者記念)
- - 箴言9
- - 箴言8
- - 箴言7
- - 箴言6
- - 箴言5
- - 箴言4
- - 箴言3
- - 箴言2
- - 箴言1
- - 聖書の中の星めぐり
- - タリタ・クム──手を取ってくださるイエス
- - ペテロのしゅうとめの物語
- - 命の水の川――聖書とはどのような本か?
- - あなたこそ神の聖者
- - 日本聖公会 2018 8・15 平和メッセージ
- - 賛美歌学会「韓国の新しい聖歌集~イ・コニョン氏を迎えて」
- - へりくだる霊と神の憐れみ
- - 宗教者九条の和ニュースレター36号 2018.5.3
- - 2018 平和の祈り(原爆記念日)奈良基督教会
- - 会堂長ヤイロの妻の物語
- - 鄭燦宇牧師追悼
- - 祭司ザカリア──洗礼者聖ヨハネ誕生日(6月24日)に寄せて
- - 足を洗ってくださったイエスさまの手
- - 主よ、わたしたちは だれのところに行きましょうか
- - 主の息吹を受けたニコデモ
- - マグダラのマリア物語
- - “霊”が語らせるままに
- - 信仰と愛──アンティオキア教会の始まり
- - イエス御自身が真ん中に立ち
- - クロパの妻マリアと十字架のイエス
- - 自分のもとへ引き寄せよう ──トマス・クランマーの殉教
- - 黙想の恵み──その方法と実際
- - 聖書と私の出会い──私の前半生
- - ハバククの祈り
- - 案内「黙想の恵み─その方法と実際」第10回奈良基督教会修養会
- - 十字架の道行2018
- - ローマの信徒への手紙「恵みと信仰──キリスト教信仰の根幹」2018
- - 使徒言行録「パウロの回心と働き」2018
- - わたしについて来なさい
- - 主よ、お話しください
- - シューベルト「詩編第23編」対訳
- - 幼子の名はイエス(2018)
- - 2017 メサイア(ヘンデル作曲)で綴るクリスマス物語
- - ♪ きよしこの夜
- - 尹東柱さまにささげる歌──生誕100年に寄せて
- - 2017 奈良基督教会クリスマス礼拝ご案内
- - 2017 第11回ひがしむき 光のページェント&チャペルコンサート
- - 【当日冊子】クリスマスに備える黙想会 ~ ライアーの調べとともに~
- - クリスマスに備える黙想会 2017
- - 「尹東柱さまにささげる歌」対訳
- - 2017バザーのための礼拝
- - 【全文】第7回公開聖書講座 コリントの信徒への手紙1、2「土の器に宿るキリストの命」
- - モーセ物語
- - ヨナを愛される神
- - 終わりの日を思って今を生きる ──シラ書から
- - 第7回公開聖書講座「コリントの信徒への手紙一、二──土の器に宿るキリストの命」
- - 奈良基督教会礼拝堂 紹介
- - 説教者としてのわたしの歩み
- - 2017原爆記念日の祈り
- - 知恵は神の友と預言者を育成する ──旧約聖書続編「知恵の書」をひもとく
- - 神に対して生きている
- - 父よ、あなたをほめたたえます
- - 人の子が神の右に立っておられるのが見える
- - 聖霊を受けなさい──神の愛の火
- - 第6回公開聖書講座 「ローマの信徒への手紙 恵みと信仰──キリスト教の根幹」全文
- - イエスご自身が近づいて来て
- - 【案内】第6回公開聖書講座「ローマの信徒への手紙」
- - 聖土曜日礼拝式文
- - 聖金曜日(受苦日)礼拝式文
- - 2017 奈良基督教会イースターご案内
- - 主よ、信じます
- - 第5回公開聖書講座 「使徒言行録~パウロの回心と働き」 全文
- - 日韓の歴史──尹東柱の生涯と詩を中心に(2017/02/15)
- - 【案内】第5回公開聖書講座「使徒言行録──パウロの回心と働き」
- - 第4回公開聖書講座 「ヨハネによる福音書~肉(人)となった神」 全文
- - 東の国の博士たち
- - 幼子の名前はイエス
- - 第4回公開聖書講座「ヨハネによる福音書~肉(人)となった神」
- - メサイア(ヘンデル作曲)で綴るクリスマス物語
- - 奈良基督教会クリスマス礼拝2016
- - マリアの夫ヨセフの物語
- - 「ウィリアム・ティンダル 司祭 1536」
- - 旧約聖書における救い主待望
- - マルティン・ルター~宗教改革500年の前の年に
- - 「あなたは我々の中におられます」 エレミヤ
- - クリスマスの聖歌3曲
- - 第3回公開聖書講座 「ルカによる福音書~イエスの祈りに触れる」全文
- - 「ルカによる福音書──イエスの祈りに触れる」第3回公開聖書講座
- - それが、まさしくあなたの命
- - 恐れるな、アブラムよ
- - 忍耐された方イエス
- - 親愛幼稚園園内研修「聖書のおはなし」2016/08/18
- - 「君が代」修正処分裁判 東京高裁で勝利判決が
- - マルコによる福音書 「イエスの肉声を聞く」(全文)
- - イエスの服にさわった女の人
- - 第2回 公開聖書講座「マルコによる福音書~イエスの肉声を聞く」
- - マタイによる福音書~ 「インマヌエル」(神はわたしたちとともにおられる)全文
- - 礼拝における所作と動作 ~聖書とのつながりを中心に~
- - 父と子と聖霊――三位一体主日の祈り
- - 尹東柱詩碑献花式
- - 礼拝堂──神さまのお部屋
- - 光の子
- - 奈良基督教会公開聖書講座2016~17
- - シモンというキレネ人
- - 安保関連法施行抗議声明(特定秘密保護法に反対する牧師の会)
- - 2016 聖金曜日~イースター 案内 奈良基督教会
- - 母マリアによるイエスの物語
- - 朗読と芝居「ひとみ」──日本軍「慰安婦」問題を描く 奈良公演2016
- - 日韓の歴史を学ぶ会・IN KYOTO 2016
- - 2016イースター早天礼拝案内(奈良市内キリスト教会合同)
- - 父親は見つけて──放蕩息子のたとえ
- - しかし、神は──詩編第49編
- - 尹東柱と尹一柱──詩に現れた兄弟の思い
- - 民は聖書に耳を傾けた
- - わたしが共にいる──ヤコブの見た階段
- - 奈良基督教会の歴史と防災
- - 【聖書各書概略】ガラテヤの信徒への手紙
- - イエスさまを抱いたアンナさん
- - 黄金をささげたメルキオール
- - 2015プリモールのクリスマス プログラム
- - シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな
- - 2015 プリモールのクリスマス案内
- - 2015 クリスマス礼拝ご案内
- - 「奈良で平和を考える」2015年11月28日
- - 終わりまでお前の道を行きなさい
- - 宗教者と原発~川上牧師・中嶌住職 往復書簡
- - 小黙想「聖書にふれる~はじめのはじめ」
- - 岸田さん・君が代裁判地裁判決(2015/10/08)
- - 礼拝奉仕の心と実際
- - イエスは子どもの手を取って
- - ライアーコンサート・プログラム 2015/09/20
- - 9/20(日)ライアー・コンサート
- - 使徒信経の祈り(PDF)
- - 心からの願いを──ハンナと張準相
- - 【聖書各書概略】ルカによる福音書
- - フォーレ「レクィエム」対訳
- - 戦後70年 日韓聖公会主教会メッセージ
- - 原爆記念日の祈り 2015【式文】
- - 安全保障関連法案について考える学習会 8.29
- - 平和礼拝案内 2015年8月15日(土)
- - 奈良基督教会礼拝堂紹介 2015/07/29
- - 礼拝における聖書朗読
- - 聖公会の聖餐式について
- - 神の息と人の息 2015/07/23
- - わたしは、へりくだる霊の人と共に 2015/07/20
- - 【日本聖公会】安全保障関連法案に対する抗議声明 2015/07/16
- - 日韓聖公会 歴史断章──詩人・尹東柱を中心に
- - ヨナ物語 2015/07/10
- - 神の国に招かれたニコデモ
- - 宗教者九条の和ニュースレター32号
- - 日弁連「安全保障法制改定法案に対する意見書」2015/06/18
- - 沖縄戦 7歳一人ぼっち──戦災孤児の戦後70年
- - 朱基徹の「五つの私の祈願」の説教について
- - 天からの火、天からの風 ──聖霊降臨 2015/06/02
- - 天から音が──聖霊降臨 2015/05/29
- - 奈良基督教会礼拝堂 説明 2015/05/27
- - クランマーの殉教 2015/05/09
- - 奈良基督教会礼拝堂概略 2015/05/06
- - 神はこのイエスを三日目に復活させ 2015/05/02
- - ライアー演奏会「しずけさのなかで…4」
- - 君が代訴訟・井田意見書(2014.8.22)
- - あなたの家を思う熱意が 2015/03/28
- - 「辺野古新基地建設は絶対に阻止されねばならない」 2015/03/26
- - ♪主はよみがえり 聖歌180 2015/03/21
- - 神はわたしたちをキリストと共に生かし 2015/03/19
- - 2015 イースター案内 奈良基督教会
- - いちじくの木の下のナタナエル 2015/01/23
- - 「キリストの平和」『朝祷』第1044号 2015/01/13
- - シメオンさんとアンナさん 2015/01/12
- - さあ、ベツレヘムへ行こう 2014/12/27
- - ヘンデル「ハレルヤ・コーラス」
- - 2014クリスマス 「日ごとの聖句──黙想と祈り」 2014/12/12
- - WCCトヴェイト総幹事メッセージ「正義と平和への道」 2014/12/11
- - 正義を洪水のように 2014/11/15
- - 小羊が彼らの牧者となり 2014/10/28
- - ハガルの神──あなたこそエル・ロイ 2014/10/13
- - 天使ミカエル 2014/09/30
- - 人を惜しまれる神──ヨナ書 2014/09/25
- - ウィリアム・ティンダル──人々に英語の聖書を!
- - あなたはメシア、生ける神の子です
- - 2014原爆記念日 平和の祈り(奈良基督教会)2014/08/06
- - 幼子に福音を示される神
- - ヘイトスピーチの根絶を!
- - 宗教者九条の和ニュースレター29号
- - 一人の従順によって
- - 「戦争をさせない1000人委員会」ニュースNo.3
- - 「聖公会の特徴とは? ~信仰・礼拝・祈祷書」2014/06/29
- - 君が代は伴奏できない
- - 君が代訴訟・井田陳述書(2011/02/20)
- - 君が代訴訟・岸田靜枝さん陳述書(2010/12.08)
- - 憲法9条についてのNCC議長声明 2014/06/24
- - 恐れるな、アブラムよ ──アブラハムのある一日
- - ヘイトスピーチ根絶を求める決議(日本聖公会総会2014/05/29)
- - 韓国・讃頌歌404 2014/05/19
- - イエスは「おはよう」と言われた
- - バッハ「ヨハネ受難曲」ハイライト 対訳
- - 日本聖公会「憲法改正」反対声明 2014
- - 「本当に、この人は神の子だった」を掲載しました。2014/04/21
- - ライアー演奏会~桜薫る丘で~ 2014年4月5日(土)
- - 奈良基督教会修養会のご案内 2014年3月23日(日)
- - 「あなたがたは世の光である」をブログに掲載しました。2014/02/24
- - 「尹東柱の生涯」(略年譜)を公開しました。2014/02/17
- - 尹東柱の詩の対訳を掲載しました(2014/02/13)
- - ライアー・デュオ演奏会 ~冬から春へ~ 3月1日(土)
- - ライアー演奏会 ~新しい光の中で~ 1月18日(土)
- - 第7回 ひがしむき 光のページェント & チャペルコンサート
- - 2013 奈良基督教会クリスマス案内
- - 笛とライアーのクリスマスコンサート 2013年12月18日
- - 説教「気を落とさずに、絶えず祈れ」を掲載しました。2013/10/30
- - モーセ物語1~4を掲載しました。2013/10/25
- - 「ヨブ──旧約聖書の祈り 10」を掲載しました。2013/10/23
- - ルターの「主の祈り」を掲載しました。2013/10/10
- - リルケ「秋」を掲載しました。2013/09/28
- - 「憲法と平和の福音」を掲載しました。2013/09/28
- - 「アブラハムの祈り」を掲載しました。2013/09/27
- - 「エリヤの祈り」を掲載しました。2013/09/26
- - 「アリエル」165号を掲載しました。2013/09/21
- - 「イザヤ──聖なる神との出会い」を掲載しました。2013/09/19
- - Ariel 個人誌「アリエル」のバックナンバーの掲載を始めました。2013/09/14
- - ブログにメッセージ「ヤコブの祝福」
- - 書評(タイトル)を追加しました。2013/08/26
- - 金素月の詩をいくつか追加しました。2013/08/23
- - 「ペテロの祈り」を加えました
- - 「召し使いの祈り」を「祈り」の頁に加えました。
- - ホームページをリニューアルしました。
- - 父と子と聖霊――三位一体主日(2013年6月6日)によせて
『きけ わだつみのこえ』によせて
日本キリスト教史」後期開講にあたって
井田 泉
(聖公会神学院 1992.9.25)
戦争「できる」国から戦争「する」国へと突進する今日の状況を憂い、12年前の神学校での授業のレジュメを若干手を加え掲載します。
1.『きけ わだつみのこえ』
この夏に『きけ わだつみのこえ──日本戦没学生の手記』(岩波文庫)を2冊読んで、心に残るものがあった。学徒動員されて異国に置かれ、死を前にして綴られた青年たちの言葉を抜粋して紹介し、聖書に照らして若干の考察を述べる。
(1) 序
渡辺一夫の「感想」
冒頭に非常に印象的な渡辺氏の文が置かれている。
「しかし、それでも本書のいかなる頁にも、追いつめられた若い魂が、自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを『散 華』と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合 理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞か れるのである。この叫び声は、僕として、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。……」
「僕は、……二、三枚読んだ時、黒い野原一杯に整然と並べられた白い木の十字架を見た。そして、読んでゆくうちに、その白い十字架の一つ一つから、赤い血が、苦しげに滲み出るのを見た。このような十字架は、二度と立ててはならぬはずである。たとえ一基でも。」
「……若くして非業死を求めさせられた学徒諸君のために、僕は、心から黙祷を献げたいと思う。」
・渡辺一夫は序のしめくくりにジャン・タルジューの詩を引用する。
死んだ人々は、還ってこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいい?
死んだ人々は、慨(なげ)く術(すべ)もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?
死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?
(2) 軍隊・国家(以下の頁数は引用文章の出て来る頁ではなく、各筆者の冒頭頁)
「中沢隊の一兵が一支那人を岩石で殴打し、頭蓋骨が割れて鮮血にまみれ地上に倒れた。それを足蹴にし、また石を投げつける。見るに忍びない。……冷血漢。 罪なき民の身の上を思い、あの時何故遅れ馳せでも良い、俺はあの農夫を助けなかったか。自責の念が起る。女房であろう、血にまみれた男にとりついて泣いて いた。しかし死ななかった。軍隊が去ると立ち上がって女房に支えられながらトボトボ歩き去った。
俺の子供はもう軍人にはしない、軍人にだけは……平和だ、平和の世界が一番だ。」川島正 p.89
「私は限りなく祖国を愛する/けれど/愛すべき祖国を私は持たない/深淵をのぞいた魂にとっては……」中村勇 p.153
「日本人の死は日本人だけが悲しむ。外国人の死は外国人のみが悲しむ。どうしてこうなければならぬのであろうか。なぜ人間は人間で共に悲しみ喜ぶようにならないのか。……外国人であるゆえにその死を日本人が笑って見る。これは考えても解らない。」岩ヶ谷治禄 p.275
「私は今宣言する! 帝国海軍のためには少くとも戦争しない。……私は今から私自身のこころに対していう。私は私のプライドのためならば死に得るけれども帝国海軍のためには絶対に死に得ないと。我が十三期の学徒出身の搭乗員がいかに弾圧されているか。
私は早く戦争に行きたい。私は早く死にたい。……」林憲正 p.389
(3) 信仰
「本夕はじめて支那人の教会に入ってみました。……私は日本の耶蘇教徒だといいましたら、とても嬉しそうな顔をしてこちらに日本語の聖書がありますとわざ わざ出して来てくれました。……帰り際に老人が出埃及記(注・出エジプト記)をくれようとしました。嬉しいことでした。」大井栄光 p.31
「神の正義が立たんがためには、その熱愛する祖国の滅亡を予言して憚らなかった古イスラエルの予言者たちより、『神の国とその義とを求めよ、さらばなくて ならぬものは与えらるべし』と強く宣言したもうた主イエス、さらに『真理に逆ろうて力なし。真理に従いて力あり』とさとせる使徒パウロに至るまで基督教の 旗幟は、しごく鮮明である。
……人間中心にあらず、神本位なり。国家中心にあらず、正義本位なり。国滅びて山河あり。国民滅びて神の義の揚ぐるあれば足れりとするものが基督教である。」中沢薫 Ⅱp.53
(4) 家族
「またしても母の転科を奬むるますます激しくなった。ただひとりの息子──その成長ばかりを願って来た母は、わが子をみすみす戦場に死なせるのはけだし 〝願わざるの甚だしき〟ものであろう! その憂いその心配はまるで狂気のごとく、母としてはほとんど泣かんばかりの真剣な態度で自分に哀訴するのであっ た。……今や母の本能は鋭敏に我が子の血の匂いを嗅いでいる! 的確に〝死〟の予想をしていたようであった。
……お母さん、お気持はようくわかります。しかし時代とわれわれの教養が御言葉に添うのを許さないのです。どうぞ先き立つ不孝は御ゆるしください……。」平井聖 p.184
「……頭に浮かぶものは愛らしい子供、妻、父、母、妹等々。門出の前夜〝私を未亡人にしてはいや〟といったきみの顔が目が忘れられない。……全く男子の本懐、御召しとあらば、皇軍の一人として誓って恥じざる覚悟にいる。苦しい覚悟に。」篠崎二郎 p.91
(注・杜甫の詩「新婚の別れ」を思わせる)
(5) その他
「今の自分は心中必ずしも落着きを得ません。一切が納得が行かず肯定が出来ないからです。いやしくも一個の、しかもある人格をもった『人間』が、その意思 も行為も一切が無視されて、尊重されることなく、ある一個のわれもわからない他人のちょっとした脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されることほど 無意味なことがあるでしょうか。自分はどんな所へ行っても将棋の駒のようにはなりたくないと思います。」中村徳郎 p.228
2.若草の妻もあるらむ──万葉集から(数字は万葉集の歌の通し番号)
(1) 天皇賛美の歌
「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧みは せじと言立て」4094(大伴家持)
(2) 浜辺に横たわる死体
「浦ぶちを 枕にまきて うらも無く 臥したる君は 母父(おもちち)の 愛子(まなご)にもあらむ 若草の 妻もあるらむ 家問へど 家道(いえじ)もいはず」3339
万葉に歌われた不慮の死を遂げた人の姿は、戦争に動員されて孤独に死んでいった人々の姿と重なってくる。
3.偶像への供え物──聖書から
日本人戦没学生──彼らはアジアの人々からすれば加害者である。しかし私たちは彼らを単に「加害者」として一括りにして済ませることはできない。彼らが 日本国家の被害者であることを痛切に知らなければならない。彼らの多くは、納得できない死を日本国家から強制され、それを意味ある死であると無理に自分に 納得させようとして死んでいった。その被害者である彼らが、同時にアジアの民衆からすれば加害者であることの不幸を嘆くべきではないか。
旧約聖書には次のような言葉がある。紀元前6世紀のはじめごろのイスラエルの状況に対する神の発言である。
「お前はまた、わたしのために産んだお前の息子、娘たちをとり、偶像の食物として供えた。お前の姦淫はまだ足りないのか。お前はわたしの子供たちを殺し、火に焼いて偶像にささげた。」(エゼキエル16:20-21)
神が「わたしの子供たち」として愛しておられる人々が、戦争のために偶像にささげられた。天皇制国家という偶像に供えられた彼らのことを、私たちは忘れ てはならない。そしてこの偶像が、自分の国のひとびとのみならず、他国の息子、娘たちをも供え物として要求したことのおぞましさを忘れてはならない。
かつてイスラエルの人々がサムエルに、自分たちの王を立てることを要求したことがある(サムエル上8:1-)。それに対してサムエルは王がいかに忌まわ しいものであるかを述べたが、人々は聞かなかった。天皇を王として掲げた日本の教会は、かつてのイスラエル以上に大きな誤りを犯した。
1996年の日本聖公会総会における「戦争責任の宣言」は、教会がイエス・キリストの教会であるためにどうしても必要であった。
(2004/08/23)