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最初の殉教者ステパノ
使徒言行録
7:51-60
イエスさまが復活し、天に昇られた後、イエスを信じる人々に聖霊が注がれ、最初の教会が誕生しました。教会は生きていました。その姿を使徒言行録はこう伝えています。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
2:42
しかし人数が増え、教会が大きくなるにつれて、大きな問題が生じてきました。教会の中に、軽んじられている人々がいる、という苦情が出て来たのです。軽 んじられている人々とはだれかというとギリシア語を話すユダヤ人です。同じユダヤ人であっても、外国に暮らし外国語で生活する人々。そのやもめたちへの援 助が後回しにされている、というのです。
貧しい人々を支えることは当然のこととして最初の教会では行なわれてきました。ところが同じ教会に属していても、外国語であるギリシア語を話す人々は言 わば後から入って来た人です。新しい人たちは後回し。しかしこれでは不公平ではないか。生活に困っているのに、なぜ自分たちの仲間は放置されるのか、とい う声が大きくなりました。このままでは教会は分裂してしまいます。
12弟子たちは非常に困りました。どうしてこの現状を打開できるのか。いくらやっても自分たちの力の限界を越えている、と判断しました。別に責任者を立 てて、教会の生活と奉仕活動の運営はその人たちに任せる。自分たちは祈りと御言葉の宣教に専念する。こうして選ばれたのがステパノをはじめとする7名の指 導者です。これが執事職の起源です。どういう観点で7名が選ばれたか。当然、活動や組織運営の能力があると見られた人たちでしょう。しかし聖書はそのこと には触れず、「信仰と聖霊に満ちている人ステパノ」(使徒6:5)らを選んだ、と書いています。
ステパノは教会の貧しい人が軽んじられないように力を尽くしました。しかし彼の活動は、単に教会の運営や経済活動の範囲に限定されることにはならなかったのです。
ステパノは現実に対する敏感なセンスを持った人でした。間違っていると感じたことを黙っていられませんでした。ステパノはエルサレム神殿に憤りを感じた のです。神殿は本来、神さまを人々にあらわす場所です。神と人とを結び合わせるのが神殿の意味です。ところが当時の現実のエルサレム神殿は、神と人との間 に壁を造り、人が神に出会えなくなってしまっている。
ステパノは言いました。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうして いるのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しまし た。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
使徒7:51-53
ところで私たちはニケヤ信経でイエス・キリストの昇天について次のように告白しています。
「天に昇り、父の右に座しておられます。」
イエスが復活し、天に昇られ、父なる神の右に座られた。これは、仕事が終わったのでゆっくりしようと腰掛けられたのか。そうではありません。
主イエスが父なる神の右に座しておられるのは、私たちの現実をしっかり受けとめようとしておられるからです。よそ見せず、せからしくせず、座って私たち をしっかりと見ていてくださる。座って私たちの思いと声を聴いていてくださる。私たちのことを感じて、イエスさまはじっとすわって私たちのことを全身で受 けとめていてくださるのです。はるかかなたにではなく、私たちの間近に、神と共に、飼い葉桶の傍らにイエスは座っておられます。
ここでステパノの話に戻って、使徒言行録第7章の続きを読みましょう。
「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」
7:54-55
座っておられたイエスが立ち上がられました。ステパノが石を投げられて殺されようとするのをイエスは黙って見ておれなかった。イエスは立ち上がられた。ステパノはわ たしが引き受ける。ステパノはイエスが立っておられるのを見ました。ステパノは立っておられるイエスの御手と胸に向かって死んでいった。イエスは立って、 ステパノの体と魂をしっかり受け取られました。ステパノは自分の体と魂をイエスの御手に胸に預けて死んでいきました。
イエスは私たちを受けとめるために座っておられますが、私たちが危険にさらされたときは立ち上がって私たちを捕まえてくださるのです。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見え る』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の 着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』 と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」
7:55-60
ステパノは石を投げられました。石は彼の皮膚を破り、骨を砕きました。おびただしい血を流して、ステパノは死んでいきました。立ち上がられたイエスがステパノを引き取られました。
しかしこの痛ましい出来事が、やがてひとりの人の回心を引き起こすことになりました。このステパノの死に立ち会い、ステパノの殺害に荷担したパウロが、やがて回心し、迫害していたキリスト教を今度は宣べ伝えることになるのです。
もし、ステパノの殉教がなければパウロの回心はなかった。ステパノの死があり、パウロの回心があったからこそ、イエス・キリストの福音の恵みは、この私たちに届くようになったのです。
座っておられるイエスさまを私たちは知り、またステパノの殉教を通して私たちは私たちのために立ち上がられるイエスさまを知らされるのです。
(2005/04/17 京都復活教会)