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気を落とさずに、絶えず祈れ
創世記32:23‐32 ルカによる福音書18:1‐8
2019年10月20日・聖霊降臨後第19主日
尼崎聖ステパノ教会での説教
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」ルカ18:1
イエスさまは、人が悩みを抱えて苦しんでいることをよくご存じでした。イエスの直弟子たちもそうですし、2000年後の弟子であるわたしたちもそうです。
わたしたちは問題のむつかしさ、苦しさに容易に失望してしまいます。時々は祈るけれども、心配のほうがまさってしまうことが多い。そういうわたしたちのことをご存じであるイエスが言われます。
「あなたがたは失望するな。気を落とさずに、どんな時にも祈っていなさい。」
これはわたしたちを悩みの淵から救おうとされるイエスの呼びかけです。この呼びかけに支えられて、わたしたちは祈る者となりたいと願います。
ここでイエスがなさったのは「やもめと裁判官」のたとえです。やもめ、夫を失った女性は、しばしば力ある者によって苦しめられ、孤立させられ、不利益を強いられて、場合によっては持っているわずかなものまで奪われたりすることがありました。
このたとえの中でやもめの訴えのことをイエスが話されたとき、イエスご自身が出会われたやもめたちの姿が目に浮かび、彼女たちの悲しみや訴えがイエスさまの心の中に響いていたに違いありません。
けれども今はしばらくこのたとえから離れて、先ほど朗読された旧約聖書の箇所から、ひとりの祈る人の姿に目を注いでみることにします。創世記第32章、遠い昔のヤコブという人の姿です。
ヤコブは、アブラハムの孫で、イサクとリベカの息子です。ヤコブは双子の弟で、兄はエサウです。若い日に兄エサウから長子の相続権をだまし取り、兄の憎しみを買いました。ヤコブは母リベカの勧めに従って家を離れ、母の兄、自分にとっては伯父さんにあたるラバンのもとに身を寄せて、20年の間そこで家畜の世話をして過ごしました。
そこでヤコブはラバンの娘、いとこのレアとラケルを妻とし、たくさんの子どもを授かりました。やがてヤコブは家族と家畜の群れを連れてラバンのもとから脱走し、遠い道を旅して故郷の地に戻っていきます。
故郷に帰ってくるのは、なつかしうれしいことのはずなのですが、しかしヤコブは故郷の地に近づけば近づくほど、苦しみが増してくるのを感じました。20年という長い年月を経ても、兄エサウが今も自分を憎んでいるのではないか、会えば自分を殺そうとするのではないかという恐怖が去らないのです。
ヤコブは先に使いの者を遣わし、エサウに挨拶させました。使いの者は帰ってきて報告しました。
「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます。」創世記32:7
400人が迫ってくる! ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けました。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのです。
ヤコブは叫ぶように祈りました。ここは今日の聖書日課からは省かれていますが、非常に重要な箇所です。
「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」32:10-13
このようにヤコブはひとり神にすがって祈ったのです。
その夜、ヤコブは自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選びました。第1の贈り物、第2の贈り物、第3の贈り物と、三重におびただしい贈り物を用意して、順々に兄エサウに届けさせました。
まもなくヤコブは川に至りました。ヤボクの渡しです。ヤコブは先に僕たちを渡らせ、持ち物を渡らせ、家族も渡らせました。しかし彼は川の手前に留まっています。渡ることができないのです。ここを向こう岸に渡ってしまえば、万一、兄エサウが襲いかかってきたときには逃げることができない。エサウが恐ろしい。
ヤボクの渡しを前にして渡ることができず、ヤコブは神の救いと祝福を求めて徹夜で神と格闘するほどに祈りました。
25節以下を読んでみましょう。
「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』『お前の名は何というのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』
『どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、『どうして、わたしの名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。』」32:25-31
次の1節も読みましょう。
「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていた。」32:32
ヤコブは天使と、もっとはっきり言えば神と、夜通し格闘して祈ったのです。こうしてヤコブの祈りは聞かれ、神さまから祝福をいただきました。ヤコブは神に守られている確信と平安を得て、勇気を持ってヤボクの渡しを渡りました。
けれどもここで彼はただ確信と平安と勇気を与えられただけではありません。ヤコブは、夜を徹しての苦しい祈りをとおして、変えられたのです。いろいろ経緯はあるにせよ、自分が兄エサウを傷つけ、憤らせた。ひたすら誠意をもって赦しを願う思いで兄に会おう。歩くのも困難なほどの腿の痛みを抱えて、彼は足を引きずりながら兄エサウに近づいて行きました。
昨夜はエサウが恐ろしくて川を渡れず、最後まで残っていたヤコブは、今は先頭に進み出て、地にひれ伏しました。エサウは走って来てヤコブを抱き締め、一緒に泣きました。
こうして20年ぶりにヤコブは兄エサウと和解したのです。
諦めてはいけないのです。神の救いと祝福を得るまでは、祈り続ける。毎日毎日神に訴え続けるのです。
イエスは言われます。気落ちしてはいけない。祈る勇気を失ってはいけない。いつも、どんな時にも祈っていなさい。神さまは絶対に放置されない。無視されない。
このように弟子たちに教えられたイエスは、やがてあのヤボクの渡しのヤコブのように、苦しみもだえて祈られました。ゲッセマネです。
ヤコブのようにかつての自分の負い目の故に死の恐怖におびえて祈られたのではありません。自分の救いのためではなく、人の救いのためです。イエスは死を前にして、ゲッセマネで神と格闘して祈られました。血の汗を流して祈られました。わたしたちを神の国に入れるためです。
ヤコブは祈りの格闘をとおして神の祝福を受け、自分の命を長らえました。しかしイエスは、祈りの格闘をとおしてご自分の死を受け入れ、わたしたちのために神の祝福を獲得してくださいました。
神さまが祈りを聞いておられます。イエスがわたしたちのために祈っていてくださいます。祈ることのなかでわたしたち自身が変えられていきます。
今日聞いたイエスさまの言葉を、わたしたちが無にすることがありませんように。
神さま、わたしたちはしばしば気落ちし、失望します。けれどもそれだからこそ祈る人にしてください。諦めずに祈り続ける者に、いつも祈る者にしてください。イエスさまがご自分の命を献げるまでにわたしたちの救いのために祈ってくださったことを無にすることのないようにしてください。イエスさまが再びおいでになるとき、祈ってきた者として、信じてきた者としてお会いすることができますように。アーメン