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【説教】あなたの優れた霊を授けて

ネヘミヤ記9:16-20
2020年8月2日・聖霊降臨後第9主日
上野聖ヨハネ教会にて

 今日は初めに読まれた旧約聖書・ネヘミヤ記第9章の場面にご一緒に近づいてみたいと思います。場所はエルサレムの、水の門と呼ばれる門の前の広場。ここに朝早くから大勢の人が集まっていました。時は紀元前443年第7の月の24日──年はそこまではっきり言えるかどうかはわかりませんが、月と日はそう書かれています。イエスさまがお生まれになるより400数十年前のことです。第7の月というのはわたしたちの7月ではなく、秋の収穫の頃です。

 ここに早朝から集まったのは礼拝のためです。聖書の言葉を聞くため、そして祈るためです。皆はとても真剣な表情をしています。聖書の言葉を聞かなければ、そして祈らなければ、と感じています。

 この日に至るまでの経緯をあらましお話ししておかなければなりません。

 この日からおよそ百数十年前、イスラエル、ユダの人々は国を失いました。大帝国アッシリア、ついでバビロニアによって祖国は滅ぼされ、神殿は破壊され、エルサレムとユダの主だった人々は遠い異国に連れさられて行きました。これをバビロン捕囚と呼んでいます。そこで人々は悲しみと嘆きの中で数十年を過ごしました。ところが思いがけないことが起こりました。新しく起こったペルシア帝国がバビロニアを滅ぼし、帰国を許したのです。人々は喜びの帰国を果たし、破壊された神殿を再建しました。そのときは希望に満ちていました、

 ところがそれから約70年が過ぎた頃、重苦しい空気と無力感が人々を捕らえていました。ユダの人々は周囲から圧迫と侮辱を受け、独立を回復することもできず、エルサレムの城壁は焼け落ちたままで再建する気力もありません。生活も信仰もすっかり力を失った状態です。このような中にエズラとネヘミヤが前後して帰国しました。彼らは人々を励まして社会を立て直そうとしました。城壁の再建はその目に見えるしるしです。

 ところで、社会と人々の生活を立て直すために一番根本になるのは何か。それは、礼拝です。現に礼拝は続けられている。しかし命がありません。神さまとの生きた交流が失われてしまっているのです。そのもっとも深い問題は、自分たちが神さまに背き、神さまから離れてしまっているのに、それに気づかない、それに直面しようとしないことでした。

 しかし変化が起こりました。3週間ほど前のこの月の1日にエルサレムの水の門の前の広場で行われた礼拝が決定的でした。その日、人々は皆、夜明けから正午まで聖書の朗読に耳を傾けました。その間に自分たちがどんなに神さまを軽んじ背いてきたか、また隣人を無視してきたかを痛切に悟りました。にもかかわらず自分たちを見捨てられない神の憐れみが迫ってきました。その日から人々の生活と信仰は変化しはじめました。これを進め深めて行かなくてはなりません。

 そして今日、同じ月の24日、再び人々は早朝から集まり、聖書の朗読を聞きました。聖書の朗読を聞きながら、神が自分たちにはっきりと呼びかけておられるのを心に感じます。次第に人々は自分たちのうちに抱えている過ちを、背きを、言葉にして神さまの前に告白しなければもう耐えられないという状態になってきました。礼拝の指導者たちの祈りが始まりました。

「とこしえより、とこしえにいたるまで、栄光ある御名が賛美されますように。いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。」ネヘミヤ記9:5

 祈りは神への賛美から始まりました。これはわたしたちが礼拝のはじめのほうで「大栄光の歌」を歌うのと同じです。

 やがて祈りは、自分たちの先祖を導かれた神さまの働きを振り返っていきます。

 「あなたこそ、主なる神。アブラムを選んでカルデアのウルから導き出し、名をアブラハムとされた。」9:7

 次に祈りは700年ほども前の出エジプトの出来事、荒野の40年の旅を振り返ります。

 「あなたは先祖の目の前で海を二つに裂き、海の中の乾いた地を通らせ、追い迫る敵をあたかも石のように、荒れ狂う水の深みに投げ込まれた。昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、わたしたちの先祖を導き、その進み行く道を照らされた。」9:11-12

 エジプトでの奴隷の生活からの解放も、荒野の危険な旅も、神がご自分の民を愛するがゆえに守り導かれたのです。

 ところが──今日の旧約日課はネヘミヤ記第9章16節の「ところが」から始まっていました。

 「ところが、わたしたちの先祖は傲慢にふるまい、かたくなになり、戒めに従わなかった。聞き従うことを拒み、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、かたくなになり、エジプトの苦役に戻ろうと考えた。」9:16-17

 この祈りをいま聞いている人たちは、昔の先祖の話とだけ聞いたのではありません。自分たちは先祖と同じ過ちを犯してきた、という思いがこみ上げてきます。

 「しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。」9:17

  「まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し、夜は火の柱を取り去ることなく、行く道を照らされた。」9:19

 「まことに憐れみ深いあなたは……」過去のことをこのように祈るとき、今祈っているわたしたちに対しても、「まことに憐れみ深いあなた」でいてください、という願いが起こります。「彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった」神が、今のわたしたちを見捨てないでほしいのです。

 次の20節では神がかつて荒野を旅する民に与えられた具体的な恵みを想起して祈ります。

 「(あなたは)あなたの優(すぐ)れた霊を授けて彼らに悟りを与え、口からマナを取り上げることなく、渇けば水を与えられた。」

ここで挙げられた神の恵みの賜物は三つです。「あなたの優れた霊」「マナ」「水」。いずれも貴くかけがえのないものですが、今は最初の「あなたの優れた霊」に心を向けてみましょう。

 神が荒野を旅する苦難の民に与えられたのは「あなたの優れた霊」。「霊」は神さまの息吹です。わたしたちはこの地上に生まれたとき、神の息をいただいて呼吸する者となりました。神の霊がわたしたちの中で希薄になれば、わたしたちは気力を失う。希望を失う。正しい判断ができなくなる。愛も信仰も危機に瀕します。その危機からわたしたちを守るために、神はご自分の霊をかつての信仰の先祖にお与えになった。それを神は今日の聖書の箇所、広場で祈る人々に与え、そして今のわたしたちに与えてくださるのです。

 与えられる霊は「あなたの」霊です。神さまご自身の息吹、神のいのちです。その霊は「優れた」霊です。良き霊、喜びをもたらす霊です。

 この霊が神から自分たちにも与えられていることを、人々は祈りつつ悟りました。痛みが、苦しみが起こりました。自分たちは神に忠実でなかった、神を悲しませてきたという痛みです。と同時に、決意が心の底から生じてきました。今こそ神を信じて罪を告白し、自分たちの苦しい現状を神に訴え、そして新しく出発しなければという決意です。

 この日、エルサレムの門の広場に集まった人々は、およそ3時間にわたって聖書の朗読を聞き、その後また3時間にわたって地にひれ伏して祈り続けました。昼が来て、6時間の礼拝は終わりました。そのとき、おもだった人々は前に出て、神を信じその掟を行うことを誓約し、署名しました。他の人々もこれに同意しました。

 こうして紀元前400数十年前の信仰共同体は、礼拝と生活において刷新され、新しく出発したのです。

 わたしたちもささやかではあったとしても同じ経験をしたい。この礼拝をとおして神さまの優れた霊を受け、み言葉と聖餐の糧をいただいて、新しく出発したいと願います。

 神さま、あなたはかつてわたしたちの信仰の先祖に憐れみを注ぎ、あなたの優れた霊を与えて人々を新しく力づけられました。同じ霊を今、わたしたちにも与えてください。わたしたちの祈りと信仰をよみがえらせ、あなたのみ業がわたしたちをとおして行われるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン