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【説教】「わたしは生きている」2020/09/07

エゼキエル33:7-11

2020年9月6日・聖霊降臨後第14主日
上野聖ヨハネ教会にて

「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」エゼキエル33:11

 時は紀元前600年頃です。エゼキエルはエルサレムの祭司ブジの息子で、自分も将来は祭司として神と人に仕えるつもりで成長しました。ところが東に起こった超大国バビロニアによってユダの国は占領され、数多くの人々が捕らえられて、遠くユーフラテス川のほとりに移住させられました。バビロン捕囚と言います。エゼキエルもまたそのうちの一人でした。およそ25歳でした。そして30歳のとき、彼はその異国の地で預言者として召されたのです。これについてはエゼキエル書第1~3章が詳しく伝えています。
 
 エゼキエルは自分の国の滅亡を経験し、また自分の将来の目標も断たれて、絶望の淵に落ちました。しかしその中で彼は、主が生きておられる、神がこの悲惨な現実の中で生きて呼びかけておられることを知ったのです。しかも彼はその主なる神の言葉を語る口とされました。彼はその結果、頑なな人々の反抗に遭い迫害を受けることになりました。

 そのころ流行した言葉がありました。その言葉はことわざのように故国イスラエルの地から伝えられて、捕囚の地の人々の心も捕らえてしまいました。
「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」18:2

 これは宿命論です。子孫とは今生きている自分たちのことです。自分たちの先祖が神に背いて悪いことをしたから、自分たちはその報いを受けている。それで国が滅びて、自分たちは異国に連れて来られて何の希望もない。こうなったのは先祖たちのせいで、もう自分たちはどうすることもできない。何をしてもむだだ、どうせ自分たちは滅びてしまう。

「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」
この言葉とともに、諦め、絶望、投げやり、自暴自棄、無責任……こういう空気が人々を支配していきます。

 これに対して神は言われました。
「わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。」
18:3

「わたしは生きている。」
 当時、「主は生きておられる」というのは、よく使われる挨拶言葉であったようです。人々は出会うたびに「主は生きておられる」と言うのです。ところが、人々は口にしている言葉の内容を忘れてしまってまったく意識していない。神さまが生きておられるとは本気で思っていないのです。
 神さまはそのような人々のありさまを放置せず、みずから発言されます。
「わたしは生きている。」

 わたしたちもひょっとしたら、神さまが生きておられることを忘れているかもしれません。不真面目だから、とは限りません。一生懸命取り組んで悩んで、苦労して、疲れて悲観的になる。神さまが生きておられることを忘れる、見失うことがあるかもしれません。

 神は捕囚の地の人々にエゼキエルをとおして呼びかけられました。
「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。」18:21
 「どうせ」とか「所詮」はやめなさい。宿命論は許さない。あなたが過ちから離れてまっすぐに生きれば、あなたは滅びることはない。未来は開ける。神は、人それぞれが自分の責任でしっかり生きていくことを促されました。それが救いの道なのです。
 
 捕囚の地の人々はエゼキエルの伝えた神の言葉に心を動かされました。今の苦境と悲惨を先祖のせいにすることをやめて、自分たちのありようを反省するようになりました。あのことわざから解放されたのです。
 けれども今度は人々はこう言います。今日のエゼキエル書第33章10節です。
 「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか。」
 先祖のせいだとは言わなくなりました。自分たち自身が神に背き、過ちをおかしていると悟ったのです。しかしそこで絶望に陥りました。「どうして生きることができようか。」神に帰ろうとはしない。帰る気力も勇気もありません。
「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」

 これを神は聞かれました。聞かれた神はそれをどうされるのか。放置されるのでしょうか。
 神のうちに憐れみが起こるのです。このどうしようもない民も、ご自分の愛する民なのです。

 神はエゼキエルに命じて言われます。
「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」33:11

 神は冷たく見捨てられるのではありません。人がしっかり生きること、まっすぐに生きることを切望される。人が生きることを願われる、湧き立つ情熱の神、愛の神は、民をご自分のもとに呼び返されます。
「わたしは生きている……。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」

 この神の切なる願いと呼び返す言葉はそれで終わらず、やがて600年後にわたしたちの世界に、形をとって肉体をもって現れました。これがイエス・キリストです。神がみずから人となってわたしたちを呼び返しに来られたのが、イエス・キリストです。この方はこう言われました。
 「わたしが生きているのであなたがたも生きる。」
               ヨハネ14:19

 今日、わたしたちが知るべきことがあります。それは、神は生きておられる、ということです。神は生きておられて、わたしたちの現実を見ておられます。見ておられるばかりではなく、わたしたちをご自分のもとに呼び返し引き寄せて、生かしてくださいます。

 「わたしは生きている。」
 「わたしが生きているので、あなたがたも生きる。」
 
 神さま、あなたが生きておられることをわたしたちに教えてください。あなたがわたしたちを呼び返しておられる声を聞かせてください。わたしたちを宿命論や諦めや絶望から解放してください。新しく生きる勇気と信仰をお与えください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン