- - 【説教】父と子と聖霊──三位一体の神
- - 【説教】あなたがたは力を受ける──昇天のイエス
- - 【説教】叱られたフィリポ
- - 【説教】人の子が神の右に立っておられる──ステファノの殉教
- - 【説教】わたしの主、わたしの神よ
- - 【イースター説教】わたしは主を見ました
- - 【黙想と祈り】十字架上の七つの言葉
- - 【説教】アリマタヤのヨセフ
- - 【十字架の道行】
- - 【マタイ受難曲 コラール】
- - 【3月21日】トマス・クランマー カンタベリー大主教、殉教者 1556
- - 新しい道【尹東柱の詩 3】
- - 【説教】サマリアの女とイエス
- - 【説教】神の国に招かれたニコデモ
- - 少年【尹東柱の詩 2】
- - 雪 降る地図【尹東柱の詩 1 】
- - 【説教】山の上のイエスの姿
- - 【講演本文】『天(空)と風と星と詩』初版本に見る尹東柱の面影
- - 【講演資料】『天と風と星と詩』初版本に見る尹東柱の面影
- - 【説教】あなたがたは世の光である
ルターの「主の祈り」について
1
いくつかの経緯を経て、最近、マルチン・ルター(宗教改革者、1483~1546)がドイツ語に訳し、また短い解説をつけた「主の祈り」を知り、心を動かされたのでドイツ語から翻訳してみました。
訳を掲載する前に、きっかけとなったことを先に記します。
わたしは趣味でリコーダーを時々吹いています。趣味として楽しんできたのですが、楽しむだけではすまなくなり、真剣に吹くことも学ぶようになっています。
それはひとつは毎週水曜日、幼稚園の礼拝の開始前、子どもたちを礼拝堂を迎える10分くらいの時間に(自主的に)責任を持つようになったからです。
礼拝堂にひとり待っていて、笛を吹きます。子どもたちは階段を上って礼拝堂に入ってきます。静かに、でも息苦しい感じではなく、「神さま、こんにちは」というふうなのがほほえましいです。笛を吹くのは、祈りの空気をつくるためです。
礼拝のことはひとまずおいて、リコーダーの曲をたくさん残した人の中にヤーコプ・ヴァン・エイクという人がいます。16世紀の終わりころに生まれ、1657年に世を去ったオランダ人です。ユトレヒトの大聖堂でカリヨン長を務めたそうです。カリヨンというのは教会の大きな鐘で、演奏することのできるものです。
そのエイクはリコーダーの古今の曲を集め、「笛の楽園」として出版しました。
最近、その楽譜3巻を手に入れました。全部で143曲。驚いたことに、巻末には各曲について注釈と歌詞!が付いています。リコーダーの曲ですが、本来、言葉(つまり内容)を歌うものだったのです。
曲の中には、キリスト教の信仰の歌、いわゆる世俗の歌、舞曲などさまざまなものが含まれています。
全体は2部に分かれ、各部ともプレリュード(前奏曲)で始まり、旧約聖書の詩編で閉じられます。
第2曲の題は“Onse Vader in Hemelryck”、ドイツ語で言うと“Vater unser im Himmelreich”。「天の国におられるわたしたちの父」、つまり主の祈りなのです。巻末にはオランダ語とドイツ語で歌詞が載せられています。これがルターの「主の祈り」であることにやがて気づくのですが、これは次回に。
2
わたしたちの教会、聖公会は、16世紀、今からおよそ500年前、宗教改革によって誕生した教会です。聖公会は英国、イングランドに成立した教会ですが、聖公会も含め、宗教改革の土台となった大きな存在はマルチン・ルターです。
ルターには嘆きがありました。それは礼拝が生きていない、ということでした。主たる礼拝は聖餐式(ミサ)です。ミサはラテン語で行われる。人々には意味がわからない。礼拝が生きたものとなるにはどうすべきか、礼拝が神さまと人々がほんとうに出会う場所となるには何が必要か。
自分たちの分かる言葉で聖書を聞く。自分たちの言葉で祈る。それが必要です。そこでルターは聖書をドイツ語に翻訳し、礼拝をドイツ語で整えていきました。
礼拝の中にはみんながもっともなじんでいる祈りがあります。繰り返し唱え、折に触れて唱える祈り。それは、16世紀のドイツでも、今のわたしたちにも同じ。主の祈りです。
しかし主の祈りは祈られているか。人々はその意味をわかって祈っているか。心をこめて祈っているか。ルターの悩みは、主の祈りがほんとうに祈られていない、ということでした。
しかし、悩んで留まるのではない、嘆いて終わるのではない。主の祈りをみんなが分かって祈り、心から祈るために、ルターは実行しました。主の祈りに短い解説を付ける。解説といっても単なる説明ではなく、聖書から来ている主の祈り本文に、それをときほぐす自分の祈り、そこから自分に呼び覚まされた祈りを重ねていくのです。
そしてそれを音楽に載せる。ルターはこうして、主の祈りをいくらか詳しくしたものを、みんなが礼拝で歌うようにしました。そうして主の祈りは人々の頭で理解され、心に浸透し、教会の形成の大きな力となっていきました。
これは他人事ではありません。わたしたちも主の祈りで何を祈っているのかを理解し、それを心から祈る者となりたい。
ルターが主の祈りに自分の祈りを加えて、広く礼拝で歌うようにした、ルターの「主の祈り」を今日はご紹介します。
これはルターの編集した Geistliche Lieder (霊的な歌)という聖歌集に収められています。曲はいずれご紹介することにして、今日は祈りの言葉のみをご紹介します。わたしが一昨日、ドイツ語から翻訳したものです。間違っているところがひょっとしたらあるかもしれませんが、読んでいてわたしはとても心を動かされましたので、これを皆さんも心の深みで受け取ってくださるように願っています。
(2009/06/28 京都聖三一教会)
ルターの「主の祈り」対訳は次をご覧ください。
https://johnizaya.com/wp/wp-content/uploads/2013/10/9833a958fab22d825d06bde40bdd3a69.pdf