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【聖書協会共同訳「詩編」の日本語について──個人的印象(1)】
130編
わたしは聖公会に属していますので、通常の礼拝の際は祈祷書を用い、詩編は祈祷書に収められたものを使います。
けれども個人的な祈りに際しては、従来は「新共同訳」をよく用いてきました。祈祷書の詩編よりも新共同訳の詩編の言葉のほうが自分の心の思いや叫びに近い。もっと率直に言えば、新共同訳をとおして自分の祈りをささげてきた、と言ってもいいくらいです。
☆
2018年に聖書協会共同訳が出て、少しずつこれに親しむようになり、翻訳・編集・出版のためにささげられた大変な労苦を思って感謝しています。
詩編に関しても新共同訳に代えて聖書協会共同訳を個人の祈りの時間に用いることが多くなりました。新鮮さを感じる一方で、新共同訳のときにはなかった「ひっかかり」を感じることが時々あります。
第130編については二つあります。
(1)3節
「主よ、あなたが過ちに目を【留めるなら】
わが主よ、誰が耐えられましょう。」
新共同訳では「……心を留められるなら」となっていたのが、尊敬の敬語「られ」が省かれています。
日本語としての歯切れはよくなったのですが、わたし個人の祈りとしては、敬語を省くのは抵抗を感じます。
すでにしばらく前に気づいたのですが、詩編においては神を主語とする(「主」、「あなた」等も含む)動詞の敬語が相当省かれています。翻訳方針なのかもしれません。
敬語の使いかたについては種々の考えがあり、聖書協会共同訳における敬語の省略を「不適当」とすることはできませんが、わたし個人には抵抗があります。それでやむなく勝手に敬語を入れて用いたりしています。
聖書協会共同訳は「礼拝で用いることを主要な目的とする」とうたっています(序文)。詩編における敬語の一定程度の省略がどう議論されたのかはわかりません。
(2)5節
「私は主を望みます。
私の魂は望みます。
主の言葉を待ち望みます。……」
冒頭の2行が、わたしにはどうも意味がはっきりしないように感じます。
「望む」は広辞苑によれば、①遠くをながめやる。はるかに見渡す。②希望する、と説明されています。
「私は主を望みます」は①ではないでしょうし、②と解しても不明瞭な感じが残ります。
新共同訳では
「わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき……」
これはすんなり入ります。
フランシスコ会訳聖書は
「主はわたしの望み
わたしの魂の望み……」
となっていて、聖書協会共同訳よりは受け入れやすい気がします。
以上はわたし個人の言葉の感覚からする「つぶやき」のようなものです。